I'm hungry spider , you're beautiful butterfly.
 なんてことはない、恋だったのだ。ぼんやりと彼女が、陽の光でひらひらと、くすくすと楽しそうに仲間たちとお喋りしている姿を、木々が作り出す陰に潜んで眺めているだけでぼんやりとした幸せを感じられるくらいの。陽の光の下にいる彼女は溌剌として綺麗だが、闇の下、月の光が一瞬だけ彼女を照らした時のその美しさを知る者は果たしてどれくらいいるだろう。瞳にもう一つ月を映して、ぽつりと呟いた賛美の言葉に、その言葉を発した彼女に、己は囚われたのだから。彼女を、彼女の仲間を喰う為だけの仕掛けに、まさか当の本人が見惚れるとは。彼女の仲間はちゃんと教えていないのだろうか。「綺麗」と彼女が見惚れたものには、八つの手を持つ怪物が待ち構えているんだよ、と。


 真夜中にふらふらと飛び回るのは悪い癖だ。友人にも、親にも、口を酸っぱくして注意される。だが、夜の月は美しく、また夜の森は昼と違った顔をしている。ひんやりとした静寂はどちらかと言うと好ましい方の部類に入り、だからまた性懲りも無く夜に抜け出し、暗い木々の中を飛び回る。昼は、明るすぎるのよ。昼に生きる者でありながらそんな事を考えてしまい、思わず苦笑する。何故皆夜を恐れるのかしら。こんなにも、闇は優しいのに。彼女は星色に光る羽を震わせながら、ひらりひらりと舞っていた。その時である。彼女が、彼を見つけるのは。視界の右端にきらりと光るものが映り込み、思わず、振り向いてしまう。そこにあったのは、露に濡れ光る彼の凶器と、その中心に王者の如く佇む「彼」の姿だった。思わず零した言葉は、どちらを表したものだったのか。それは彼女にも分からなかったが、だがその時から真夜中の散歩に別の理由が発生した。彼女は、彼を見ていた。彼が彼女を見ていたように。陽がきらきらと輝く場所から、一瞬目が眩みながらも闇の方へ目をやる。けして視線が合う事は無い。それは、奇妙な逢瀬だった。だが彼女は、己の命を引き換えにしてでも、彼を見ていたかった。彼のその寂しそうな瞳が、自分を見る時だけ一瞬和らぐその刹那を得る為に、彼女は偶然を装っては彼の巣の近くを通り、羽を震わせた。けして交わることは無い迷路を、彼らは進んでいた。


  全く、厄介だな。彼は闇の中そう一人ごちた。自分のこの心にも、自分の周りの危険性についてとんと無頓着な彼女にも、だ。心は半分で彼は彼の凶器の手入れを行う。解れた所を繕いながら、腹が減ってるからだ、と誰かに弁解する。腹が減ってるから、こうして罠を仕掛けているのだ。思えばここの所ちゃんとした食事を摂っていない。早く何かがかかればいいのに、と彼はお腹を摩りながら思った。それだけ?とからかう様に笑ったのは、恐らく周りの闇だろう。それだけさ、と彼が強情張って答えると、彼の一番身近な隣人であり親友は、夜にちょくちょく罠の様子を見に行っているのも?それが決まって月が罠の上で微笑む頃だってことも?とけらけらと笑う。思わずぐ、と押し黙った彼に闇は楽しそうな笑い声を立てながら、くるくると巡っていた。あの子は、ぼんやり屋さんだもんねぇ?とチェシャ猫の様に笑う闇に内心舌打ちをしながら、それでも彼は沈黙を貫いた。彼とて気付いてはいる。この所途端に増えた夜の監視の回数は決まって月が綺麗な夜に集中していて、そして月は彼女を運んでくる事も。ぼんやりと瞳を輝かせながら彼の凶器を見つめる彼女が、うっかりしてその凶器に捕まってしまわないように。でも、もし。彼女が彼の凶器に捕まったなら。その時はどうしたらいいのだろう、と彼は月を仰ぎ見た。月は彼女に直結していて、見ていて心が苦しくなる。どんなに手を伸ばしても手が届かないのは、月も彼女も同じだ。彼女は陽の光の中、きらきらと輝いていて、己は闇と寂しく戯れているのが精々だ。彼女が己の下で目を閉じる時。その時凶器が捕らえた全てを喰いつくしてしまえば、こんなに張り裂けんばかりの渇きは、少しは癒えるのだろうか。全てを覆い尽くした闇は、黙り込んだ彼を優しく包んでいた。


 この頃、彼が見えない。光の中から闇に眼を凝らしても、闇の中彼の凶器を見つめても、彼は一向に姿を現さないのだ。彼が生きている事は分かる。だが、自分が彼の姿を捉えようとするとたちまち深い深い闇の中に逃げてしまう。闇は彼女の行く手を遮る様にして、ごめんねぇ?と反省の色の無い声で笑った。彼女は、彼の元へ行きたかった。叶う事ならば、彼と一度、たった一言でも良いから言葉を交わしたかった。だがそれが叶う時は、彼が彼女を喰らう時でもあった。彼は捕食の為に凶器を磨き、彼女はその凶器によって捕らえられるのが自然の摂理だった。ならば、と彼女は思う。彼が彼女を喰らう時であれば、彼は真正面から彼女を見て、もしかすると言葉を交わすことが出来るのだ。いつも奇妙に視線を絡ませ合う彼と彼女が、その時ばかりは何の邪魔も無く、見つめ合う事が出来る。それは、なんて、幸せな。何かを決めた彼女に、闇は笑みを深くして、どうぞぉー、と道を譲った。正面には、露に濡れ月によって光る彼の凶器がある。まるで初めて見た時の様に、彼女は暫し見とれ、そして意を決して。
 彼の凶器に自ら身を飛びこませた。


 うつらうつらとしていた彼は、何かを自分の凶器が捕まえた事に気付いた。空を見ると月は雲の間に隠れていて、ならば彼女では無く、何か別の物を捕まえたのだろうと、彼は早速獲物の元へ向かった。久々の食事に、思わず鼻歌が零れる。普段ならばちょっかいをかけてくるのに今夜は嫌に静かな闇に気付く事も無く、彼はゆっくりと一本の糸を降り始める。そう、そして、大方の予想通り、ここで月が不意に、気紛れに姿を現した。曖昧な輪郭しか宿さない闇が晴れ、冴え冴えとした光の中凶器が捕らえたものは。
 彼は声にならない叫びを上げた。八つの糸の中心で目を閉じていたのは、あの恋い焦がれた彼女で、力なく星色の羽を震わせている。何故。彼は奇妙に顔を歪ませながら、思わずその場に立ち止まる。だが、糸に伝わった振動で、中心にいた彼女は『何か』が来た事に気付いたのだろう、ゆっくりと目を開けた。とにかく、助けなければ。憎まれ口すら叩かない今日の闇を無理矢理引きずって身体に巻きつけて、そっと彼女の傍まで寄った。自分は、どうするのだろう。本当に助けるのだろうか。分からない。自分が、何をするか、それすらも分からない。兎に角、何か声をかけようと、だが何を言ったら分からず思わず口ごもっていると、不意に、彼女が彼を見た。否、それはそう見えただけかもしれない。偶々彼のいた方向を見ただけかもしれない。だが、闇越しに、彼と彼女は確かに見つめ合った。一瞬。
 彼が口を開く前に、彼女が、酷く優しい顔で口を開いた。まるで自分が彼女に愛された様な錯覚すら覚える彼女の表情を見つめつつ、彼はただ彼女の言葉を聞いていた。「助けて。」
 「助けて、下さい。」
 その時彼の表情に浮かんだのは、悲しみとも絶望とも、安堵とも愛しさとも、全てを諦めそれでいて全てを手に入れた様な、そんな表情だった。どんなに彼女を見つめていて彼女を愛しく思い、そして彼女が「綺麗」と零しても、自らに危険が迫った時、彼女は彼の手を跳ねのけた。彼は、その事に絶望したが、同時に安堵した。良かった。これで、彼女の事を、××××。


 さて。
 彼女の真意を、少しは説明しておかなければなるまい。自ら彼の凶器の元へと堕ち、それでいて彼に助けを乞うた、彼女の真意を。彼女は決して命が惜しくなった訳でも、彼を恐れた訳でもないという事を。あの闇越しの逢瀬に、彼女は気付いてしまった。彼が、自分を殺したくないと、喰いたくは無いと思っている事に。だがそれと同じくらい、喰いたいと思っている事に。その二つの想いに彼が挟まれ、身動きが取れなくなっている事に。彼女は、僅かに嘆息した。こちらとしては、彼の一部になる分には大いに構わないのだけれど、だがその後彼女を喰ってしまった彼の心情を想うに、己はここにいてはいけないのだ。自分がここで彼に何か、例えば愛の言葉でも囁いた日には二つのジレンマで彼を永遠に苦しめることになる。ならば、自分は、他者を装うしかないのだ。惨めに助けを乞うて。そしてその時彼が選んだほうによって、自分の生死が決まる。どちらでもいいのだけれど。彼女は聡い。だからこそ、彼にどちらかを選ばせた。自らの発言によって、全ての物語が終焉に向かう事を感じつつ。彼女が彼の手を跳ねのけた時、彼の心は、彼女を憎悪するだろうか。軽蔑するだろうか。それとも。彼女には彼がどんな選択をするかは分からなかったが、だがその選択を丸ごと彼として受容しようと思った。彼を、これ以上二律相反な感情で苦しませないために。彼女は、ある意味、全ての終止符を打ったのだ。





 そして、最後に闇が残される。
 彼は、結果として彼女を逃がした。無言で、彼女を凶器から解き放った。彼女は、星を振りまきながらふわり、と上へと舞った。月を背景に彼女が舞うその光景は酷く美しく、彼はそれを食い入るように見つめた。己から逃げる姿すら美しいと感じた己の心に苦笑しつつも、彼はそれを見つめ続けた。先程まで彼女の居た、そして最初であった時彼が居た場所から。視界が霞む。おや、と彼は思った。どうやら自分は死にそうだ。そういえば。そういえば彼女に夢中で、この所ろくに食事も摂っていないじゃないか。まあ、と彼は淡く微笑む。彼女の美しい姿を美しいまま留めつつ、今死んで永遠にしてしまおうか。そんな思いつきも、悪くは無いと思った。どんどんと遠ざかっていく自分の意識を叱咤しつつ、彼女を見つめ続ける。からからに乾ききった喉を無理やりこじ開けて、彼女に届く事の無いであろう言葉を紡いだ。狭まっていく視界。最後に捉えたのは、愛しい愛しいあの子が振りまいた星空だった。遠い彼方、彼女が彼の言葉に答える声がする。それを聞いたのか、聞いていないのか。彼は幸せそうに、彼女に微笑みかけた。

 暗転。

 彼女はゆっくりと彼の元へ降りてくる。彼の凶器に手を触れないように気を付けて、そっと、彼の頬に手を差し伸べた。彼はそれに反応することなく、人形の様にその頬は冷え冷えとしていた。それが、彼の選択だった。彼女に手を跳ねのけられても、彼は彼女を愛し続けた。喰う事より、逃がす道を。凶器が捕らえた全てを喰いつくすのではなく、己の想いを喰うことで、彼女を逃がした。彼女はそっと彼の額にキスをして、やがて彼を抱き締めた。羽は開いて閉じてを繰り返し、そして開いたまま静止し、彼と彼女の姿をそっと隠した。朝が来て、陽が昇り、もう一度夜が来て、月が昇っても彼女は彼を抱きしめ続けた。時たま羽を震わせて。そして何回か太陽と月が彼らの姿をしげしげと不思議そうに見つめた後、やがて彼女が羽を震わせる事も無くなった。彼を抱きしめる力が無くなって、彼女が地に堕ちそうになった時、そっと闇が手を差し伸べ彼女を拾い上げ、空いている片方の手で彼を彼の王座から降ろすと、二人一緒にして葬った。闇は弔いの言葉も、慰みの言葉も言うことは無かったが、ただそっと、彼らを闇で包んだ。やがて朝がやって来た時、からっぽになった彼の凶器を見て、太陽がそっと十字を切り、夜がやって来た時、月がそっと花を手向けた。闇が包んだ優しい墓の中、彼らはただ幸せそうに笑っていた。これは、なんてことない、恋の物語だった。それだけ。蜘蛛と蝶の、一瞬の物語。それでも、彼らは幸せだったのだ。


 あいしています、と彼が囁き、あいしています、と彼女が微笑んだ。