その本を見つけたのは、ほんの偶然だった。
珍しく図書室へ行き、ちょっと場違いな雰囲気を感じながらも、棚を眺めていく。夕方で、図書室はオレンジ色の光で染まっていた。適当に背表紙を撫でながら私はぷらぷらと歩いていく。面白い本が無いかなー。紙の乾いた感触を感じながら、私は、溜息を付きながら退屈で死にそうになっていた。何故こんなにつまらないのだろう。学校も、友人も、何もかも。部活に熱中している子は酷くきらきらとした毎日を送っている様だし、勉強を頑張っている子も、毎日を真剣に過ごしているみたいだし。私は帰宅部だし、勉強はやりたくないし、彼氏もいなし、本当につまらない。つまらない。
思わず、撫でていた背表紙にガリっと爪を立てる。予想以上に爪が深く刺さって、私は慌ててその本を取り出す。ハードカバータイプで、どうやら2枚のカバーで覆われている様だ。オレンジ色が基調の写真のカバーの上に、半透明の白いカバーがかかっている。題名も著者名も無い。そういう演出というか、効果を狙っているのだろうか。裏表紙を見ても、出版社名も金額も書かれていない。後ろの数ページを捲っても著者紹介はおろか、お決まりの発行者や出版日も無い。珍しい、というよりも、初めて見るタイプの本だった。おまけに、貸し出し用のカードも付いていない。もしかして、誰かが自分の本を忘れていったのだろうか。
パラパラと最初の数ページを眺めていく。目次の前、物語が始まる前に、あの、何と言うのだろう、著者から一言、みたいな。私の眼は、そのたった一行に文字列に吸い込まれた。
『僕と先輩と彼女の物語』
私は、その本を片手に、図書室入り口近くのカウンターに居座る、この部屋の主へと向かう。勿論、この本について尋ねる為だ。正直、あの司書の先生は、ちょっと、いや大分変な人で、近付きたくない。学校でもかなりの噂だ。曰く、司書の飯嶋先生はガイコツを恋人にしてるだか。なんだか。顔はいいのに、中身が残念だともっぱらの評価だ。当の本人は気にした様子も無く、緩い笑顔でのんびりとコーヒーを啜ったりなんぞしている。水気は紙の大敵な筈だが、その紙を集めた部屋を統べる本人が、水分を気にした風も無く扱っていていいのだろうか。いいのだろう。ここではこの人が法律だから。
すいません。この本、誰かの忘れものじゃないですか?
んー?ああ、それねぇ、ちゃんとうちの本だよ。ただ貸し出し禁止なんだよねぇ。読むなら図書室内でよんで下さい。
でも、これ、出版社とか著者とかありませんよね?珍しいですよねこんな本。
あはは。それねぇ、自費出版の本なんだ。ここ卒業の生徒がねぇ、3冊だけこの本を作って、その内の1冊。3冊だけ作るなんて、相当嫌がられたろうし、お金もかかっただろうねぇ。と、言う訳で、大切に扱ってねぇ。
ふぅん。面白いですか?この本。
それは、僕の答えられる事じゃないよ。本を読んでどう感じるかは、その人だけのモノだしねぇ。
じゃあ、先生の感想でいいですから。
私がそう言うと、飯嶋先生は曖昧な笑顔のまま、口を噤んだ。教える気は無い、ということだろうか。成程、確かに他人の評価はあてにしてはいけない。私は、ありがとうございました。とお辞儀してから、図書室中心部にあるテーブルスペースへ向かう。本当は借りて読みたいが、貸し出し禁止なら仕方ない。下校完了時刻まで後1時間半。それまでにどのくらい読めるかは分からないが、まあ、読み終われなかったら明日も来ればいい。どうせ放課後、時間はたっぷりとあるんだから。
*
先生。この本、一体どういう経緯で作られたんですか?
ああ、読んだのかい?どうだった?
正直、分かった様な、分からなかった様な・・・・。いえ、分かりませんでした。
私は、件の本を手でいじりつつ、飯嶋先生と対面していた。
結局、あの本はあれから3日後の丁度今から10分前に読み終わり、思わず先生に尋ねたのだ。だって、これは、余りにも。小説では無い。けれどノンフィクションではない。いや、ノンフィクションであってほしくないと、私が勝手に願っているだけなのかもしれない。こんな、絶対にあり得ない様な事が、あったのだろうか。あったとしたら、私の信じていた常識やこの世の法則は、恐らく全て、180度では無い、57度変わるだろう。180度変わるなら、まだいい。だが57度変わられてしまうと、どれが変わりどれが変わっていないのかで、私は恐らく混乱の中に立たされる。知らない方が良い事もある。きっと、それはこの事だろう。だが、そう思う反面、全てを、真実を知りたくもなってきたのだ。矛盾。
この本はねぇ、本の中に出てくる少年が居たでしょ?
ええ、斎藤君、ですよね。
そう。その子が書いた物語を、本にしたんだよ。無論、本にした子が、+α、加筆修正を加えているけどねぇ。
斎藤君は、創作上の人物じゃないんですか?
ううん。この本の中に出てくる人皆、実在の人物。名前とかも皆同じ。
へえ・・・。あれ、でも斎藤君が、本にしたんじゃない、んですか?その人が書いたんでしょう?
違う違う。本にしたのは、斎藤君の友人。
ユウジン・・・。あの、女の子の事ですか?
そうそう。あの子ねぇ、今でもたまにやってくるんだよ。1年に、1・2回程度かな?決まって春の頃にね。そして、僕と雑談をして、その本を暫くそこの机で読んで、帰っていく。
へえ・・・。どんな人なんですか?
うーん・・・。そうだねぇ、綺麗な子、だよ。
別に、外見を聞いた訳ではないのだが。でも恐らく先生もそれは分かっているだろう。それを踏まえた上での、綺麗、なのだろうか。分からない。本の中の彼女は、私には、少し浮いた、何処ぞのお嬢様で、恐らく少し高慢なのだろうという印象しか与えなかったのに。綺麗。本の中の彼女は、現実とは違うのだろうか。
先生。この本は、実在の人物を使ってのフィクションなんですか?これ、ストーリーは創作ですよね?
・・・君は、この本を、『どう』思いたいのかな?
飯嶋先生の眼がゆっくりと眇められる。どう、思いたいって。私はこの本がフィクションかどうかを知りたいだけなのに。
頭の中、右の隅っこで、何かが鳴っている。それは恐らくは警報で、人間に備わる第六感とやらが発しているのだろう。ピー、ピー、ピー。規則正しく続く電子音。その音と共に点滅する赤い光。直接見ている訳でもないのに、その赤い光はやけに私の眼を眩ませた。何に対して、警報を発しているのだろう。何故か急に持っているあの本が、やけに重く感じられて、困惑する。
この物語はねぇ、斎藤君が体験した出来事のいくつかを、小説という形で書き起したものなんだよ。だから、まあ、ノンフィクションになるのかな?
嘘ですよ。だって、こんなことが実際にある訳が無いですもの。だって、だって、こんな、
どんなに私が言い募っても、飯嶋先生の眼は落ち着いて穏やかで、揺るがなかった。じゃあ、本当に、この出来事は起こったのだろうか。私は、恐怖を感じた。この図書室、図書室で、彼らは。
ならば、あの事。あの事すら事実なのだろうか。そう疑問に思ったと同時に、もう一人の私がストップをかける。聞いてはいけない。知ってはいけないよ。今ならまだ戻れる。あの境界線を越えてしまえば、もう戻れないのだから。私は今、境界線ぎりぎりを、そろそろと歩いているのだ。ちょっとでも、足をはみ出してしまえば、さようなら。あの、退屈でまっ平らな世界から、想像もつかない様な世界へ。
頭の中がガンガンと響く。何も考えられなくなった頭の中、浮かぶのはこの本の事だ。
夕暮れの図書室。
遺されたのは、薄い文庫本一冊。
狂ったように笑いながらブランコを漕ぎ続け、そして手を離した少女。
せんぱい。せんぱいはこいをしたことがありますか。
繰り返される日常。たまに訪れる非日常。
蜂蜜色の長い三つ編みをぱたぱたと揺らし、誰にでも等しく笑いかけた少女。
弟に何度も殺される姉と、姉を何度も殺す弟の、双子。
急にキーンと耳鳴りがし、全てのバラバラだったピースは収束し、『何か』が描かれようとしていた。私はそれをぼんやりと追う。無意識の内に、言葉が零れた。
この小説の最後、題名だけあるエピローグ。そこでは、もしかして、最後、お姉さんは本当に死んでしまうのではないですか?
私を見つめながら、飯嶋先生は先程と変わらない穏やかさでもって、私に告げた。イエスであり、ノーであると。合っているけれど、間違っていると。先生はそれだけを私に言うと、その後は沈黙という選択をとった。急速にクリアになった視界に、私が戸惑っている内に、先生は黙ったまま、何処かへと消えてしまった。否、私が何処に行ったのか気付かなかっただけだ。しん、とした静けさが私の中に溜まっていく。透明になる、視界。そこに浮かぶのは、一つの想いだけだった。
知りたい。この、彼らの、最期を。
思えばこの時をして、境界線を越えてしまったというのだろう。最も、私では境界線を片足がちょっとはみ出す位が精々だったが。
彼らの終わりを知る為、私は思索の海に潜ることとなった。奇しくも、夢中になれる事を見つけたのである。
一つ、警報が鳴り、あとは静寂だけが残った。