これは夢なのだ、とどこかで囁く声がした。だがそれすらも無視した。分かっている。分かっているけれども。それでもは、その束の間の、一瞬ともいえる安寧に、少しだけ浸りたかった。
 夢と言うものは、偶然描かれるものではない。今まで過ごしてきた過去の断片が密やかに浮かび上がり繋がりそして、物語が生まれる。それは、かつて自分が一度は体験した出来事であり、零からは夢は何も描いてくれない。そしてそれだけに夢は脆く儚く、朝にはほろほろと緩やかに崩れ去ってしまう。必死に記憶のメモリにとどめようとしても、その隙間を縫う様に、ほのかな残り香を残しながら、消えてしまう。
 そう、かつてのあの二人の様に。

 せんぱい。
 張りついた様な喉を必死にこじ開けて、たった四文字を音声化する。淡いオレンジ色の光が漂う図書室。その意味もなさない音を発し、後はただただ図書室の入り口に立ちすくむ自分に、カウンター前に佇んでいた少女は、酷く優しい視線をよこした。(無論、そんな『優しさ』とて自分の描いたものなのだけれど)
 もうすぐ春だというのに。先輩はまだまだ冬を背負っている様で、すいっと背中に冷たい風が吹いた。先輩の黒い黒い髪も、同じくらい闇を沈めた瞳も、肌の白さも何もかも記憶通りなのに、やはりどこか曖昧だ。記憶の限界。それでも、例え夢だとしても先輩に会えた事が、かつて愛した世界が戻って来た事が嬉しくて、思わず口に笑みを描く。そして言葉をつづけようとして、笑みが強張る。声が出ない。喋れない。それどころか、夢の中の自分の体が動かせない。ただ木偶の棒の様に突っ立っているしかない。思わず涙が滲むが、先輩はそれに気付いているのかいないのか、それでも変わらずの笑みを湛えていた。

 今日ほど、朝が来なければよかったと思う日は無いですね。

 唐突に、だがはぁ、と心底嫌そうな顔をして、先輩は呟いた。え?という疑問が顔に浮かんだのだろう。先輩はもう一つ溜息をついた。だが、あいつほどではないけれど、2年間弱は共に空間を共有したのだ。その溜息をついた、嫌そうな顔の奥に、どこか悪戯めいた光が煌めくのを見逃さなかった。
 ここで止めて。どこかで焦燥がちりちりと焦げ付く。
 
 今日で貴女とも一緒に過ごせませんし、この図書室ともお別れですし・・・・・・。嗚呼、厭ですね。折角のおめでたい日なのに。こんな気持ちでは、嬉しくもなんともない。

 カウンターに乗っていた本を弄くる先輩。その様子はまるで拗ねてる子供の様で、思わず微笑ましくなる。先輩の嘘つき。本当は、何よりもまず、あいつと一緒に過ごせなくなるのが嫌なんでしょう?でも、喋れない事もあるけれど、そこまでいうと先輩に失礼な様な気がして、そっと笑いを顔を伏せることで隠した。

 もう、子供の時間も終りね。子供の世界では私だって穏やかで過ごせましたが、おとなの国では異形扱いでしょうか。もう少し、もう少し、と思っている間にも時間は過ぎて、気付いたら目の前にもう、灰色をした世界が私を待っているのです。

 先輩の純度の高い黒は、今は外の橙を吸いこんでは吐き出し瞳の表面で一瞬の光を上げる。何も言えなくて、ただぼんやりと図書室の中を見渡した。図書室は、いつも通り静寂が一人居座っていて、そして幾人かの影法師がゆらゆらと気だるげに動いていた。飯嶋先生はきっと職員室か何かに行っているのだろう。一瞬夢であることを忘れかけて、そして逆にまるで痛みを伴っているかのように、言葉通り、痛切に、夢であることを自覚した。過去の安寧ほど、手に入れがたくひりひりとした痛みを生むものはない。今が、現実が嫌な訳ではない。過去が幸せすぎただけだ。そして、過去は優しい。それだけだ。
 喋る事も出来ず、動く事も出来ず、ただ間抜けに過去の再生を見守っているだけの自分の頬に、先輩がそっと手を触れた。左頬に感じる微かな温かみですら再現してくれる夢のハイクオリティに感心しつつも、逆にその温かさは必要なかった。まるで、現実を模写したような夢なんて。少しくらい、オリジナリティというものを、含んでも誰も文句は言わないだろうに。

 ・・・・・・賢い貴女ですもの、これから私達がどうするかなんてお見通しでしょう。ごめんなさい。ごめんなさい。私達は、貴女に、全ての真実と言う厄介なものを押しつけてしまいました。貴女の、これからの人生を見ることが出来ないのはとても寂しいですけれど・・・。でも貴女の事ですもの、きっと皆に好かれるしあわせな人生を送れますよ。

 言葉にしなくちゃ伝わらない事もあるけれど、伝えなきゃいけないけれども言葉にできない事もあるのだ。知っていた。これから起こる事を。無論これが一度体験したからという訳ではない。あの時、現実の自分も、これから起こる事を知っていたのだ。

 それでも、それでも・・・・・・私達を、愚かな私達を、葬ってはくれませんか。

 先輩はこちらをぼんやりと見ながら、酷く悲しい笑い顔をした。甘やかなバニラの匂いが自分を包む。選ばれた。自分は、葬り人に選ばれたのだ。神を信じてはいない二人の為の天使にして、神への愛を説く神父にして、たった一人の参列者にして、永遠の、墓守。制服を喪服にして、一冊の娯楽書を聖書となし、手向ける花は無く。
 そして気付いている。身体の呪縛が解けている事に。声が再び戻ってきている事に。

 せんぱい。先輩。

 何?とでも言う様に、首を傾げる先輩。それを眼の端に捉えつつ、左頬の温もりを確かめる様に、甘える様に、その熱源にすり寄った。

 わたくしを連れて行っては、くれませんのね。

 先輩は、表情を変えることなく、ごめんなさい。と呟いた。こうして自分だけ残される。この寂しく哀しい現実に。すぐ後ろで、再び図書室の扉が開く音がした。それは、やたらと身体の中で響いて、反響して、そしてやがてふっと消えた。誰が来たなんて、見なくても分かる。先輩の表情然り、過去の思い出然り。そして、全ての終わりが始まる。

 先輩。そろそろ行きましょうか。桜がとても綺麗に咲いてましたよ。何か、如何にもって感じがしませんか?

 そっと先輩は頬から手を離し、酷く優しい顔でこちらを一瞥しそっと何事かを囁き、かの片割れの元へ向かう。横を通り過ぎるバニラが、感情を優しく抑え込む。自分も、彼らの終わりを見届けるべく、覚悟を決めて振り向き、歩きはじめた。かの双子は図書室入り口でこちらを静かに見つめていて、自分はその視線を臆することなく見つめ返す。泣きたい想いも、置いていかれる寂しさも、先輩が最後に囁いた「何事」の為に全てを昇華させていくことにした。双子はやがてくすりと笑い、それをきっかけに自分も小走りで二人のもとへ駆け寄った。そして、歩きはじめる。二人は終わりへと、自分は続きへと。そしてやがて全てはもう一度交るのだ。その為に、自分達は図書室を出た。いつも通り、他愛もない笑い声を上げながら、傍らに本を携えて。

 失礼しましたー。

 はーい。と返事を返したのは、図書室の奥に居座る静寂か、影法師か。



 そして、優しさに満ちた夢は終わる。



 ベッドの上、目を覚ました自分は、何かがぽっかりと抜けた様な頼りの無さと静かな安寧を感じながら、起き出す準備を始める。白のワンピースに腕を通しながら、今日の事を想う。
 今日、自分は図書室への扉を再び開けるだろう。
 その足で彼らの元へ向かうのだ。花束を携えて。
 そして、彼らとの最後の約束は完遂される。