おいでませ、此方の世界。



 この木を登って、そして私には何が残っているのだろう。
 
 まるで絶望が、悪が、この世の負が服を着てやってきたようだった。何があったのかはここで語るのは控えよう。話の主旨は決してそこではないし、ぐだぐだと話をしていたらそれこそ数日が経ってしまう。ただ、いわゆる世間知らずのお嬢さん、だった私は、世間の格好の餌で。舌なめずりをしていた狼の一匹が羊の顔をして私に近づいてきて、私は愚かにも、その狼を愛し、言われるがまま動きこっそりと実家からお金を持ちだしたりもして。それでも私は狼とつくりあげる薔薇色の未来とやらを夢見ていたのだ。
 笑止。
 嗚呼、狼が私に囁いてきた音に真のものなど一つも無く、どうやら自分は騙されたらしい、と分かった時には遅かった。全くもって、よくもここまで見事に全てを奪い取っていけるものだ。お金も、信用も、友人も、そして真実愛した、この心も。最早友人と呼べるものはなく、実家ですら堂々と門から中には入れない。私に残されたのは、嘲笑と、眩暈がしそうなほどの借用書。(賢い方なら、これからの人生を考えるのでしょう。優しい方なら、狼であることの彼を許すのでしょう。強い方なら、がむしゃらに一日一日働くのでしょう。)
 ですが、哀しい事に、私は、賢くもなければ優しくもなく、そして強くも無かった。夢想家は、その場に座り込んで過去を反芻する他なかったのだ。かくして私は人形となり果てた。いつの間にか親が用意した室に私は放り込まれたのだ。(ここにきて、親に全ての後片付けを押しつけた娘である私を、嗤って下さっても構いません。)
 私は、一日中窓の外を見て過ごした。親がつけた侍女が日に3度食物を持ってきて、半ば無理矢理に私の口に押し込んだ。私がパンを咀嚼する音と、侍女の微かな息遣いだけが部屋に響く。静かだった。無音映画を見ているかのようだった。(時折窓の外で鳥が泣きます。その泣き声すら、私には届かない。)
 春が過ぎて、夏が来ました。私は相も変わらず、窓近くに座り込み、景色を取り込みます。最早身体と心は乖離してしまって、けれども心はどこにもいかず部屋の片隅でひっそりと埃をかぶっているのです。くすんだ緋色をして。これが鮮やかな緋色をしたのはいつのことだったか。例え後に周りから冷え冷えとした笑いが漂ったとしても、あの時私は彼を愛したのだ。愛し、信じ、そして裏切られ。三流小説にもなりませんな、と笑ったのは疎遠な叔父だったか、従兄弟の兄様か。(どうもこれだから男の方はいけない。彼らは一生理解することの無い感覚)
 暑さに少し辟易しながらも夏が終わり、秋が来た。板張りの床はしんしんとした寒さを私に伝えた。矢張り、静かであった。僅かばかり、その静けさの質が変化はしたけれど。今までの静けさは、音が飽和してしまった曖昧な静けさだった。今の静けさは、無である。音という物理現象の存在すら消えてしまった様な静寂。張りつめた、決壊ぎりぎりの緊張。
 
 そして、いつか氾濫する。
 何故なら、紅葉が咲いたから。

 私の視界が、紅で染まる。
 窓の外では沢山の紅葉が紅に染まっていて、空気までをも自身の色に染めつけていた。否、世界が赤い。(もうすぐ、闇がやってくるのです。世界は今、移ろうているのです。)赤。紅。世界がその一色で染まったかのような幻想を私に与えながら、紅葉は声を上げて泣いていた。ざわり。ざわり。糸の様な緊張がそこで一気に撓み、そして途端私の心は再び鮮やかな緋色に燃え始めた。(いいえ、違います。あれは、くれない。紅葉の様な深い深い紅です。まるで血の様な。)窓を開け、そこから私は地におりた。裸足の下はむき出しの地面だ。私は紅葉に向かって駆けだし、そしてやがてごつごつとした黒い幹へと行きあたった。上を見ても紅。私は衝動を抑えきれず、幹に足をかけた。木登りなど、どんなに幼少のころを思い出してもやった事も無い。だが私は躊躇いも無くそのかさかさとした樹皮の窪みに足を乗せた。身体を持ちあげる。筋肉は無いが、そもそも持ち上げる対象たる自身の体が、とても軽かった。
 私はやけに楽しい気持ちになりながら、次の足場を探す。見つけては足を乗せ身体を浮かせ、を繰り返す。右を向いても紅。左を向いても、くれない。
 程よい窪みや出っ張りが見つからず、ふうと息を吐きながら動きを止める。何故だろうか。何か大切な事を忘れてしまった様な気がした。それが何だったかを思い出そうとするが、次第に私は紅で埋められていく。(こうして、忘れた事さえ忘れるのです。)絶えず紅葉が泣く声がする。私は、程よい木のこぶに右手をかけた。



 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女