原点回帰の後日譚




 僕の目の前は紅色の海が広がっていて、その中心で小島の様に浮かんでいるのは、僕が最も敬愛している、先輩だ。

 僕は図書室の椅子に座り、足を組みながらその光景を見つめていた。図書室の何とも形容しがたい材質の床は、今やてらてらとした紅で一杯だ。放課後の図書館ともあり、影法師は所々に立っているくらいで、余り人気は無い。その上、今日は雲りだ。何処となく気分が鬱々とするのも仕方が無いことだと思う。いっそ雨が降ってくれるなら、雨が齎すアンニュイだか何だかをお腹一杯心行くまで消費する事が出来るのに。図書室の窓からは鈍い色をした雲が見えるだけで、面白くもなんともない。
 そして。こういう気分の時には思考までもが何処となく負の方向へ引きずられるのも、如何ともしがたい事である。いや、決して晴れてたら常に楽しいのかと言われるとそうではないのだけれど。でも、曇りと言うのは思考をも灰色にしてしまうと、思う。
 紅の海では先輩の髪と制服の黒さと、辛うじて見えている顔や手の白さだけが浮いて見える。尤も、先輩の顔は最早白いを通り越して青く、しかしその理由は先輩が何の中に居るかを考えれば一目瞭然である。先輩は、沈黙したまま固く目を閉じている。いや、寧ろ先輩が動いたり喋ったりしたら逆に困るのだが。だって、先輩は。
 
 このお馬鹿!図書室ではお止めなさいと何度言えば分かるのです!?

 思わずくす、と口角を上げた所で、僕の後ろから、金属質な輪郭を持った声がかかる。そのややこしい口調をよくもまぁ自然に使いこなせるな。と少し感心しながらも、僕は振り返った。そこに居たのは、予想通りの人物で。2,3冊の本を手にし、むっと口をへの字にした、アリスだった。尤も、そんな事を言うのはアリスぐらいしか居ないというのもあるけれど。僕は酷くぼんやりとした気分で、やぁ。と一応返事を返しておいた。

 何が、やぁ。ですの!貴方の頭蓋骨には何が詰まっておいでですの!?

 一応、脳、が詰まってると良いけど。

 詰まってなかったら驚きですわ。そうじゃなくて、わたくしは再三再四、図書室ではお止めなさい、と注意した筈ですけれど。

 そうだね。と僕が返すと、さらにむっとした顔をして、そのまま去ってしまうのかと思いきや意外にも、僕の方へつかつかと歩み寄って来た。その迫力がちょっと怖くて、僕は思わず椅子ごと後ろに下がってしまう。そんな僕の様子にも頓着はせず、アリスは自身のスカートのポケットからハンカチを取り出し、ぐい、と僕の顔を拭った。

 ・・・・・・あの、アリスさん?

 貴方、自分で自覚はありませんの?頬に血が付いていましてよ。しかもかなりの量。

 おや。制服とかを汚さない様には気を付けていたけれど、そういえば顔にまでは注意を払ってなかったな。

 僕がされるがままになりながらそう答えると、アリスは少し黙った。白いハンカチで視界が覆われていて彼女の顔は見ることは叶わないが、恐らくは相当に呆れた顔をしているだろう。何となく、経験とこの場の空気で分かるものだ。しかし、真っ白なハンカチを血で汚してしまっていいのだろうか。洗濯をするお母さん、いやアリスの家ではもしかしたら家政婦さんかもしれないが、が赤く汚れたハンカチを見て驚きはしないだろうか。

 思わず声をかけたら、血まみれのまま笑顔で振り返られたわたくしの気分もお考えなさい!よっぽどそのまま回れ右をしてしまおうかと思いましたわ。

 なるほど。確かにそれは中々嫌な光景だ。確かに思いだしてみれば僕が振り返り彼女が僕を見て一瞬、驚愕と言うか困惑と言うか、うわぁ。という顔をした様な気がする。幾分か強めに右の頬を擦って、漸くアリスは満足したかのように綺麗になったであろう僕の顔を見た。ちらりとアリスが持っている布に眼をやると、やはり赤く、寧ろ乾いてきて茶色くなっている。恐らくは僕の様な庶民には持てない様な、品質の良いそれが無残な扱いを受けた跡を見て、思わず同情してしまった。

 ありがとう。・・・・・・よく、僕だって分かったね。

 擦られ過ぎて赤くなっているだろう顔のあちこちを撫でながら、何でも無い様に僕は尋ねる。それにアリスは持っていたハンカチの対角線上を持ちきゅ、と一回結び、さらにもう一回結びながら、ああ。と同じように至極どうでもいい事のように答えた。実際にどうでもいい事ではあったんだけど。でも、珍しくアリスから声をかけてきたので、思わず尋ねてしまう。アリスはよくクラスなどで女子男子共に様々な人間と話している姿を見かけるが、その実よくよく見ると、アリスから声をかける事は一切無い。誰かが話しかけてくるまでアリスは何処か安心した顔で本を読んでいる。

 誰かなんて確かめるまでもありませんわ。真っ赤な池の真ん中に人が浮かんでいるのを椅子に座ってのんびり眺めている人なんぞ、わたくしは一人しか知りませんもの。

 ふん。と笑ってから、アリスは結んだせいで丸くなったハンカチを無造作に放った。それは綺麗な半円を描き、音も無く見事に、図書室備え付けのごみ箱に収まる。少し勿体ないと思うのは、庶民である故だろうか。何とはなしにそのハンカチがごみ箱に収まるのを眺めていた僕とアリスは、視線をそこから離すことなく、お見事。お褒めにあずかり光栄ですわ。と言葉を交わした。

 ああ、でも先程の言葉は少し訂正して欲しいな。

 何をですの?
 
 僕は「のんびり」とは眺めてない。「考え事をしながら」眺めていた。

 ゆっくりとアリスが、ごみ箱から僕へと視線を移す。だが僕はごみ箱を見つめ続けた。ごみ箱は僕の視線もなんのその、静かに鎮座していた。

 ではお聞きしますわ。一体何を考えていましたの?

 流石はアリスだと思う。こういう場の空気とか、人の言葉の裏の考えとか、彼女はよくもまぁそこまでと言う程見事に掬いあげてくる。恐らく先程僕が聞いて欲しくないと思いながらのんびり云々と答えたなら、アリスは、そうですの。とでも言って何事も無いかのように別の話題を提供するだろう。空気クラッシャー、雰囲気デストロイヤーの異名を持つ僕としては羨ましい限りだ。尤も、そんなアリスの高い空気読み能力も、彼女の特徴から生じている事を考えると、手放しでは褒められない。彼女は個人個人の区別がついていないため、他者と話したり、とにかく関わる時には恐ろしいほどの気を使っている。常にのんべんだらりんと他者と会話している僕とは大違いだ。とにかく、その気を使う事が身に染み込み過ぎて手に入れた能力なので、僕には一生手に入る事は無いだろう。
 只哀しいのは、どんなに話して親しくなっても、僕だと分かるまでは、話している相手が僕だと分からない事だろうか。会話の端々から相手がどんな人間で、以前自分とどう繋がりがあったかを探るのが上手いアリスでも、大抵は会話が盛り上がっている相手が誰か分かって無いらしい。それが分かっている僕や先輩は、常にアリスに最初に話しかける時には、名前を名乗ったり、個人を判別しやすい話題を振ったりしている。
 そして、そんな状況下で培われた、空気を読む能力と、引き際を知るその知恵は今も遺憾なく発揮されている。もしこのまま僕が後10秒黙っていたなら、アリスは、まぁ沈黙は金と申しますわ。と言ってさして気にした風も無く引き下がるだろう。

 ねぇ。

 はい。

 ・・・・・・何故、だろうね。

 何がですの?とアリスは心底不思議そうに首を傾げた。why?としか言っていない僕を急かす事も無く、アリスは音も無く僕とテーブル挟んで向かい側の椅子に座る。テーブルに本を置く音だけが矢鱈と耳についた。影法師はゆらゆらと相も変わらず鈍く動いていて、数分前と何も変わってない様に見える。この図書室で時の変化を知ることが出来るのは、カウンターの壁に掛けられた無機質な時計位だ。それに眼をやる事も無く、僕はやっと視線をごみ箱から、先輩を通って、向かい側に座るアリスに移す。アリスの肩越しに、窓から倦怠感一杯の空が見えた。

 何故だろう。いや、こんな事を僕が思うのも変だとは分かっているんだけれども。

 ええ。

 何故。何故、先輩は、「死なない」のだろう。

 今、僕の左斜め後方で温い液体に漂っている先輩は、紛れもなく死んでいる。だが、先輩は「死なない」。何故だろう。普通の、生命としての重要な何かが欠けている気がするのだが。
 アリスは、至って真面目な顔をしている僕を暫し、ぽかん。と音がしそうな顔で見つめ、え?と呟いた。分かりやすい様に噛み砕いてもう一度アリスに言うと、アリスは首を振り、違いますわ!と半ば叫ぶように言った。

 貴方、何阿呆みたいな事をおっしゃってるんですの!

 心底、こいつ阿呆だ。と言った顔で見られた僕は、流石に情けない顔になりながらも、言葉を重ねる。いやいやいや、だって。

 だって、普通、人間はあんなに血が出て死んだら、そこでおしまいじゃないか。

 先輩の周りを取り巻く紅い海。それは紛れも無く先輩から流出した血液で。実際は海とまでは言えないが流石に比喩として考えて貰いたい。それに、それでも水たまりくらいはあるのだから。今はもう血だらけでよく分からないが、先輩には3・4のどれをとっても致命傷な刺し傷が有り、そこから先輩の体を駆け巡る紅い水は溢れ出ている。無論、僕は何の手当てもしていないので、先輩は徐々にだが確実に死へと向かった。そして、今、である。
 だが、こんな光景は既に3桁、下手したら4桁に上るほど見ている。つまりその度に先輩は死んで、そしてまた生き返ると言う訳で。不死とはちょっとずれている気がする。少なくとも、こうなる度に、先輩は毎度毎度息を止め心臓が止まり、確実に死んでいる。
 しかし、そしてその度に、数分後には元の先輩がやってくるのだ。

 やっぱり絶対何かおかしい様な気がするんだけど。

 ・・・・・・先輩を毎度毎度死の淵から突き落とす張本人が、何を抜け抜けとおっしゃいますか。大体先輩がお亡くなりになってしまっては、困るのは貴方の方ですわよ?

 只の男子高校生から一気に殺人者ですわね。そう楽しげに呟くアリスに苦笑しながらも、何故だろうね。と一人ごちる。今まで何となく見てこなかった事だが、よぅくよく考えるとかなり間違っている気もする。

 ・・・・・・じゃあ言いますけど。

 アリスがテーブルに肘を付き、組んだ手の所に顎を乗せながらにこやかに言う。彼女が頭を揺らす度に、その先の蜂蜜色の長く細い三つ編みが右に左に揺れる。

 では、何故、貴方は先輩を、殺しますの?

 う。と思った。何故って、何故ってそりゃ。そう言おうとして、その後に続ける言葉が無い事に気付く。何故、理由。そんな物、考えた事も無かった。ただ何となく、そうしなきゃいけない様な気がするだけで。思えば最初の頃は何か理由の様な感情が有った様な気もするけれど、今じゃ何も。有るのは安心感と、その他ブラックボックスに9割だ。
 思わず口ごもりアリスの顔を間抜けの様に見つめた僕を、酷く満足げな顔をしながら、アリスは見ていた。そうですわ。と彼女は続ける。

 先輩が死なないのも、貴方が先輩を殺すのも、ついでに言うなればわたくしが人を認識できないのも、理由が分からない事ですわ。でも、それで良いのですの。全てが詳らかになり、明らかに狭くなった今の世界、理由が分からない不可解な事象が2つ3つ有るくらい良いではありませんか。わたくし達はそれを当たり前として受け入れ、今まで過ごしてきましたわ。それ以上に、そしてそれ以下にも、何もありませんのよ。

 尤も、不可解な物は恐ろしく思うという人間の本能には抗えませんわ。そう付け足したアリスはどうです?とでも言う様に首を傾げた。成程、生まれた時から人とは28度ずれた世界に生きている彼女の言葉の重みは違う。思わず納得し、そうだね。とだけ言葉を漏らす。何も言葉づくで理解することだけが納得する事では無い。感覚的に、僕は、そうかもしれないと思った。何も敢えて全ての理由を知ろうとしなくても良いのかもしれない。そう考えると、先程まで喉元辺りにわだかまっていた灰色の雲がしゅわしゅわと消えた様で、久々に新鮮な空気を吸い込んだ気がした。
 不意に静寂だった図書室に、扉を開く音がして、誰かが入って来たようだ。そんな気配を僕は捉えながら、それでも視線はアリスに向ける。

 ・・・・・・ありがとう。何となくだけどすっきりした。

 いいえ。只そんなよく分からない事に悩んでいるのは阿呆の極みだと思いましたの。悩むのは答えの出る事にだけ悩んだ方が宜しいですわ。

 それ以外は時間の無駄ですの。そういってころころ笑うアリスに僕も思わず釣られて笑みを零す。向かい側に座るアリスの瞳は相も変わらず曖昧で、瞳孔が何処か分からない。彼女の瞳は本当に僕を見ているのか時々不安になる。先輩の瞳はくっきりとした黒で、何気ない時ですらはっきりとこちらを見つめるものだから、邪な考えを抱いていると見抜かれそうで怖い。しかしアリスの曖昧模糊な茶色の瞳は、何処か浮世離れしていて、僕が何を考えていようが彼女には興味も無いと突き付けられている様だ。他者から自分の事などどうでもいいと思われるのは、中々にへこむ。

 さて。

 丁度、18時半のチャイムが鳴り、いざ家路につかんと、僕とアリスは立ち上がる。すると先程図書室に入って来た誰かさんがそっと寄ってきて、僕達に微笑みかけた。

 只今。そして、チャイムが鳴りましたので、そろそろ帰りましょうか。

 お帰りなさい。

 黒のボブと言うよりもおかっぱが正しい様な髪形を揺らして、彼女――先輩は言った。無論、紅い海の中心にも過去の先輩は相も変わらず漂っている。そして僕の目の前には、もう少し遡って僕が先輩を刺す前と全く同じ、生きている先輩が立っている。何ともまぁ、な状況だ。だがこれも日常に組み込まれてしまった僕たちは幾分も驚く事無く、自らの鞄を持ち先輩に笑いかけた。全く、驚く位、日常だ。
 図書室の扉の所まで行くと、そのすぐ傍のカウンターにいるこの部屋の主である飯嶋先生が、気を付けてねぇ。とぴらぴら手を振る。それにはーい。だの何だの答えながら、先頭に居た先輩がからり、と扉を開けた。途端に、外の風が僕の顔を撫でていく。

 失礼しました。

 はぁい。と答えた先生の声に被さる様に、アリスが扉を閉める音が響く。もう冬の廊下は寒々しく薄暗いが、ぱっと振り返ると図書室の光が煌々と漏れている。それを思わずまじまじと見つめていると、先輩が不思議そうな顔をして、どうかしましたか?と訊ねた。

 いえ、何でもないです。先ぱ、

 姉さん。

 僕の語尾に重ねる様にして、先輩がにこにこと言葉を紡ぐ。

 もう18時半です。貴方の創ったルールに基づくと、私の事は「姉さん」と呼ぶべきです。

 それか、こちらの方がどちらかと言うと私が嬉しいのですが、私の事は名前で呼ぶかです。そう続けた彼女は、酷く楽しそうな顔をしながら僕の顔を見つめる。アリスまでもが、このお決まりのやり取りを微笑ましそうに見守っていて、見られているこちらとしては些か居心地が悪い。しかし先輩の言っている事にも一理あるので、僕は一つ形而上の咳をして、暫し沈黙した後、

 何でも無いです。姉さん。

 僕がそう言うと、先輩、数十分数時間の差で先に生まれた、我が双子の姉は、酷く嬉しそうに、そうですか。と答えた。何となく悔しくなりながらも、しかしその原因が分からないため悶々としていると、アリスと姉さんの会話が耳に入る。

 残念でしたわね、先輩。今日はこの阿呆も先輩の事を名前で呼ぶかと思いましたのに。

 まぁ、何年も培った慣習はそう変わりません。気長に待つ事にしましょう。

 アリスが僕の事を指すのに阿呆呼ばわりなのがちょっと癪に障るが、まぁ黙っておこう。いいじゃないか。いくら双子でもここまで姉弟の差がはっきりしているんだから。僕と姉さんの間には双子にありがちな、どちらが先に生まれたか論争は適用されない。姉さんが先で、僕が後。しかもその間にそれなりの時間を挟んだため、恐らくは母に相当な負担を強いたのではなかろうか。どこまでも親不孝な息子だ。
 アリスと姉さんの会話も一区切りついたのか、姉さんがアリスと僕を見て、さて。と鞄を握りなおした。

 いい加減帰るとしましょうか。アリスに、密。

 かの郵便制度を整備した歴史上の偉人前島密と同じ名前を頂いた僕は、そうですね。と言ってもう一度図書室の方を見てから、先に歩きだした女性陣2人の後に付いて歩きはじめた。

 扉にはめ込んである硝子から図書室内を見ると、既に紅い海は無く、そしてその中心にいた姉さんであったものも、音も無く消えていた。まるで見たものが幻想であったかのような、見事な消えっぷりだ。それすらもいつも通りな事に安堵しながら、僕は独り小さく息を吐いた。


 これが、僕が高校2年、姉さんが3年の、初冬のことだ。




 そして今。

 僕達は、同じ初冬に、観覧車に乗っていた。
 自分でもなぜこうなったのかはよく覚えていないが、共に乗っている人間のはしゃぎっぷりを見るに、恐らくはアリスが何かでこの観覧車の事を見かけて乗りたいと主張したのだろう。基本は出不精でインドア派な癖に、自分のアンテナに引っかかったものには躊躇なく突っ込んでいく姿はまぁそれはそれは清々しい。時々その清々しさはそのままに自爆しているのも見かけるが。
 流石にもう夜ともあって、街はネオン一色だ。今自分達が居る街が何と言うのかは知らないが、この光景は中々綺麗だ。女性陣2人はあちこちを指差しながら、あれは何だのこれは何だの、言葉を交わし合っている。もうすぐ頂上に達するともあって、中々の高さでうっかり下を見てしまったら気が遠くなってしまいそうだ。尤も、夜の今では、下はぼんやりとしか見えないのだが。
 僕がぼうっと街の夜景を見ていると、いつの間にかお喋りを止めた2人が、眉を寄せて僕の方を見ていた。それに気付き、何かしでかしたかと構えた僕に、アリスが申し訳なさそうに言った。

 もしかして。高所恐怖症だったりしましたの?それともこういうの、あまり好みませんの?気乗りがしないなら、気にすることなく言って下さっても構いませんでしたのよ。

 赤いタータンチェックのワンピースに身を包み、昔とは違い肩甲骨位までの長さの髪を今はポニーテールにしているアリスの眼に、夜景が映り込んでくるくる回る。まるで万華鏡の様だと思い、そういえば万華鏡は外からの光を取り込んで輝くのだと思いだし、それが余りにもぴったりすぎて少し笑えた。だが、僕がそう言う風にぼんやりしている間にも、女性陣2人はあれやこれやと言ってくる。

 もしかして喋れないほど高い所が苦手なんですの!?大丈夫でして!?

 あら、密に高所恐怖症は無い筈ですが・・・・・・。具合が悪いんですか?

 ああ、別に、ちょっとぼうっとしていただけです。気にしないで下さい、姉さんに、アリス。

 僕が慌てて答えると、姉さんは悪戯が成功した子供の様な笑顔を浮かべて、ダウト。と一言囁いた。その横で、アリスもにこにこ、いやこれはにやにやと言った方が正しい様な笑みを浮かべている。人は年月が経つと斯くも様々な笑い方を手に入れるのかと、少し不思議になる。

 姉さん呼びは禁止です。近頃漸く自然に言えるようになったのに、また昔の呼び方が出ましたね。

 やらかした。7年の時を経る間に僕と片割れとの約束は、絶対に僕が姉と呼ばない事。不承不承了解したのだが、新しい呼び方に慣れるまでにかなりの時間がかかった。その上、ちょっと気を抜くと直ぐに昔の呼び方に逆戻りだ。長い年月を積み重ねて作った呼称は、中々に崩れにくい。思わず眉をしかめた僕に、先輩は楽しそうに、言い直してくださいな。と言ってくる。頑張れー。と気の抜けた様な応援をするのは無論アリスだ。そうは言っても、呼びにくいんだよ。流石に少しはごねてみたが、あの手この手で説き伏せられた。生まれて小学校入学くらいまでに使用していた呼び方に、今更戻すことになるとは思わなかった。いや元々はこうして呼んでいたのだから自然に戻ったと言う事だけど。悶々と考えていると、早く!という無言の圧力がかかってくる。

 ぼうっとしていただけです。気にしないで下さい・・・・・・、

 少し唇を濡らす。取りあえずアリスが物凄く楽しそうな顔をしているのが気に食わない。後で絶対に仕返しをしてやろうと心に誓いつつ、一瞬口の中で無意味に空気を転がす。

 気にしないで下さい、ひめのに、アリス。

 うわぁ、何故か妙に恥ずかしい。そもそも、僕の片割れの名前が、ひめのだなんて可愛らしすぎるのが問題だと思う。お姫様のひめ。無論漢字は違うのだが、否が応でもそちらを連想してしまう。因みに漢字変換すると秘乃。僕が密だから、中々にえげつない名前だと思う。何故片割れが秘、と書いてひめと読ませるだけにしなかったのかと言うと、流石に親もどうかと思ったのと、僕がひそかで3音なのでそれに合わせたらしい。斎藤秘乃に斎藤密。ついでに北川有栖で言動では一番煌びやかなのに、アリスが一番名前では地味だ。尤もこんな名前なんて、何かの時に名前を書くのが面倒くさいというデメリットしかない。ついでに思いだすなら、初めて僕とアリスが自己紹介をした時。あの時の彼女の、貴方がたにぴったりすぎて逆に気色悪いですわ。という言葉が今でも忘れられない。

 先輩、良かったですわね。名前を呼んでもらうまで長い道のりでしたわね!

 アリスがそう言うと、秘乃(もう何か色々と吹っ切れてきて、呼ぶ事に抵抗が無くなってきた)が僕からぐりんとアリスへ標的を移す。びしっ!と音の付きそうな位指をアリスへ指して、貴女もですよ。笑顔でアリスににじり寄る。

 な、何がですの?

 私と密は双子で同い年。ということは貴女とも同い年になります。もう学校も卒業しましたし、そもそも同い年でよっぽどの事が無い限り先輩とは呼びませんよね。

 そう、ですわね。

 それならば、貴女も私の事を名前で呼ぶべきだと思いませんか?ずーっと思っていたんですよ。何故密は名前で呼ばれていて、私は先輩としか呼ばれないのだろうと。

 むっとした顔で滔々と告げる先輩は、不謹慎だが横から見ていると少し笑える。アリスが助けを求めて僕に視線を送ってくるけれど、僕はそれを悉く無視して、興味津津に二人のやり取りを見ていた。アリスが小さく僕に毒づいた様な気がしたが、これでお互いさまと言うものだろう。それも分かっているのかアリスは早々に僕へ助けを要請する事を打ち切り、頭を必死に回転させているのが分かる。しかし、アリスは大抵僕の事を呼んだりはしないし、呼んでも「密の馬鹿」だの何だの、余計な物もくっついているが、それでも先輩は羨ましいのだろうか。

 アリス。

 うっ・・・・・・。わ、かりましたわ。・・・・・・あー、えっと、ひめ、のちゃん?秘乃?・・・・・・これでいいんですの、秘乃?

 おお、決断力と実行力が早い。少し気恥ずかしそうに秘乃の名前を呼ぶアリスに、秘乃は嬉しそうにはい。と答えた。まぁ、仲が良いのは良い事だろう。にこやかに話す秘乃と、ぎこちなくその名前を織り交ぜながら話すアリスは、見ていて微笑ましい。しかし7年間の空白が有るにも関わらず、一瞬にしてあの図書室に居る時と同じ関係性に戻れたのは、些か驚いた。成程、僕達はよっぽど運が良いらしい。

 おや、密がまたぼんやりですね。どうしましたか?何か悩み事でも?

 秘乃がじっと僕の方を見る。僕はその視線を受けながらも敢えて窓の外を見つめ続けたまま、思いだしていた。と小さく呟いた。

 思いだす?何をですの?

 ・・・・・高校の、あの図書室での思い出を。

 ゴンドラがきい、と小さく揺れた。気付けば折角の頂上も話に盛り上がりスルーして、あと少しで1周、始めに乗った所と同じ所に着いてしまう。長い様な、短い様な。観覧車のゴンドラの中の時間の進み方は、少し複雑怪奇だ。

 図書室。懐かしいですね。

 秘乃が遠くを見る様な眼で呟く。も一つ、ゴンドラが揺れて、とうとうゴール地点に着いてしまった。係員が到着したゴンドラの扉を開けていく。中から真っ黒な影法師が出たり、逆に入ったりしていた。やがて、僕達のゴンドラの前に係員が立つ。降りなくては、と思いながらも何となく座り込んだままでいると、降りません。とアリスが呟く。

 降りません。

 も一つアリスが、今度ははっきりと言うと、顔の所に靄がかかった様な係員は、僕達のゴンドラの扉を開けずに、次のゴンドラへと向かう。まるで中に誰も居ないように。僕達のゴンドラは係員が中を一瞥することなく、次の一周へと廻り出した。中には、少し呆気にとられた様な僕達双子と、開き直ったかのようなお嬢様。

 降りたい時に降りれば良いですわ。そして、今はわたくしは降りたくありませんの。

 もう少し乗っていたいから、付き合えと、アリスはお願いするには程遠い口調で僕達に言う。観覧車に乗りたいと言い出したのはアリスだし、そのアリスが満足しないと言うなれば、それに付き合う他ない。と、言いつつも実は僕も秘乃も、もう少し、と思っていたことは事実で。そんな中やはりアリスの空気を読む能力の高さには舌を巻く思いである。

 ・・・・・・しかし、懐かしいですね。図書室ですか。思えば殆どの思い出はあそこに繋がっていますね。

 そうですね。アリスとも出会いましたし。

 そうですわ!最初貴方がたを見た時、こいつら何だろうと思いましたのよ。

 アリスがそう口火を切り、思い出話が始まった。あの図書室で起こった事を一つ一つ掬いあげては皆で笑い合う。観覧車はその間にもくるくると回り続け、しかし夜は終わらない。僕は何だか酷く愉快な気分になって、こんな時昔なら先輩を殺していたんだけど。と内心一人ごちた。何となく、今はそういう気持ちにはなれない。尤もそんな気持ちになった所で、今やそんな事は恐ろしくて出来ないのだが。その行為自体が恐ろしいのではない。秘乃が帰ってこないかもしれない事が恐ろしい。ならば、そんな不安要素ばかりの行為など行う必要も無い。秘乃が横で笑っていてくれるなら、それでいいのではないか。7年の時を経て、僅かながら僕も成長したらしい。ああ、でもやっぱり秘乃と呼ぶのは慣れない。先輩又は姉さんで駄目なのだろうか。駄目なんだろう。どうやら彼女なりの信念が有るらしい。そして僕は生まれる前から彼女を知っている。秘乃は、こうと決めたら絶対に変えないのだ。
 観覧車はくるくる廻る。
 夜のネオンに浮かびながら、ゴンドラが小さく、きい、と揺れた。