それは、子供の様な傲慢さが創る世界。

 朝、教科書を開くと、蛍光ペンで死ねと書かれてあった。


 思わず息を止めたのも束の間、ふ、と苦笑気味に喉につっかえた息を吐き出す。全くもう、このちょっと丸いけどどことなく習字のお手本のような字からして、舞の仕業だな。きっと、私が学校に来る前に、机の中に置きっぱなしだったこの教科書に書いたのだろう。道理で、いつもは寝ぼすけで遅刻ギリギリチャイムと同時に教室に入って来るあの子が、今日に限っては着席時間の30分以上も前に、席についてる訳だ!そのエネルギーをもっと普段にも生かせば、先生から怒られないんじゃないかなあ。と、いうか、よくやるよあの子も。ちょっと一昨日消しゴムを隠しただけなのにー。あ、でもそうとう困ってたから、ある意味私の方が悪いのかな?こんな落書き、一瞬驚いて終わりだもんね。そりゃそのページを開くたびにその言葉は残っているけど、余白の部分に書いてあるし、教科書の文字自体を読むのに困らない。そもそも学校の授業はひたすら前を向いて進むだけだから、テスト前とか分からない時しか、そのページを開かないから言葉の効力すら失われている。
 私は、舞の文字をしげしげと、でもちょっと笑いそうになりながら見つめる。ほら、やっぱり。授業中なのに、私の2列前にいる舞がそわそわとこちらを見てる。あんまり振り向きすぎると、先生に見つかるよ。ほら、言わんこっちゃない。案の定ちょっと難しい問題を当てられて、舞は見ていて可哀そうになるくらいうろたえていた。思わず周りからも密やかな笑い声が起こる。頑張れ、舞。その問題は、例題を参考に公式に当てはめて計算すれば終わりだよ。気付くかどうか、それだけなんだよ。
 私の念力が通じたのかそうでないのか、舞はおどおどと自信なさげに、それでも解答を口に出し始めた。そして、先生からの正解の声と共に、明らかに安堵した様子のあの子に、またしても思わず笑いがこみあげそうになった。全く、舞は面白いなあ!わざわざ消しゴムを隠された仕返しに教科書に落書きしたり、予測不可能な彼女が私は大好きだった。

 にゃあ。
 その合成甘味料の様な鳴き声に、私は暗闇の暖かいまどろみから覚める。つい反射的に手を伸ばし、私の左側にいた黒い毛並みをちょいちょいと撫でる。なぁに。私、今日凄く眠いの。学校で大騒ぎし過ぎたせいかな。でも今日は先生に呼ばれて雑用押しつけられたりして、皆とあんまり話せなかったのが残念、でも明日も、あるし。明日は、体育で持久走があるんだっけ。雨が降らないかな。そうしたら、きっと体育館でバレー。そっちの方がずっと楽しい。
 にゃあ。
 部屋の中は、真っ暗で、でも時々車のライトがちろちろと部屋を走っていく。右から、左。私は何となしにそれを眺めながら、ぼんやりと毛皮を撫で続ける。部屋と同化してしまった、私ともう一つの生命。私の呼吸音だけが部屋に奇妙に乱反射する。静かだ。私の息の音が、余計に静寂を深くしている。
 途端に私は言いようもない恐怖に襲われて、まるで自分がこの世界でたった一人の様で、とっさに左の温もりに心の平穏を求めた。ベッドに仰向けになっていたのを、左へと寝がえりを打つ。そして両手で黒いその生き物をちょんちょんと撫でていく。
 「・・・お前、大きくなったね」
 ミルクも、餌も、あまり食べないのに。もしかしたら脱走してどこかでご飯を貰ってるの?私が続けてそう問いかけても、素知らぬ顔で、目を細めている。まあ、いいか。元気なようだし。
 僅かに身動ぎして、ちりんと鈴が鳴る。部屋に存在する、私以外の命の首に付けられた鈴。それが微かに音を立てた。眠いなぁ。黒猫が、私の左でそっと呼吸をしている黒猫が、また小さく鳴いた。にゃお。
 それと同時に、ケータイが振動する。静寂の崩壊。私は急に酷く倦怠感に襲われつつも、無機質のそれを手に取った。
 「・・・はい」
 『もしもし、×××さんですか?』
 電話の相手、恐らく男性だろう、は、しっかりとした自信に満ち溢れた声で私の名前を謳った。それを否定する理由も気力もなかった為、私は沈黙で肯定する。黒猫は、小さく息を吐いた様だ。
 『×××さん、貴女はお気づきですか?』
 私は、このまま通話終了ボタンを押してしまおうかと思った。なんだかもう、全てが面倒くさい。きっと、疲れていて眠いのだ。朝までたっぷり眠って、明日の授業に備えなきゃ。そうそう、国語の課題の提出、明日までだよね。まだやってないやー・・・。いいや、誰か捕まえて見せて貰おう。なんであんな面倒くさい課題を先生も出すかなー。国語は嫌いではないけど、古典の文法とか、正直うんざり。
 『×××さん?聞いてますか?』
 五月蠅いな、と内心呟いた。だがそれは音声になる事はなく、結果として電波に乗って相手に届いたのは、「聞いてますよ。何ですか」だった。

 『×××さん。いい加減現実に帰ってきてはどうですか』

 その言葉を聞いた途端、私は笑った。くすくすと。げらげらと。空っぽの部屋に私の奇妙に歪んだ笑い声だけが反響する。猫はそれに驚いたかのように、立ちあがり、大きく伸びをしている。通話の相手は、死んだように黙っている。これが愉快と言わずに、何と言おうか。光が部屋を走り抜けていった。
 『気付いているんでしょう?早く戻ってこないと、喰われますよ』
 どこまでも冷静なその声に、私の笑いも少しはひっこみ、笑いすぎて目尻に溜まった涙を掬いつつ、私はスピーカーに口を近づける。
 「気付いてますよ、勿論。でも、私はここにいる事を決めているので」

 教科書に書かれた死ね。あんなの単なる仕返しな訳ないじゃん。ただの苛めだって。舞とか親しげに呼んでるけど、あの子が苛めてくる奴らのトップだよ?そんな、私は自分に害をなしてくる奴にまで優しく出来る様な人間じゃないんで。あはははは。しかも、あの落書き、実は教科書1ページだけじゃなくて全てのページに及んでたりして。その上余白に書いてくれるなんて優しさはあり得なくて、思い切り本文と落書き被ってるんですけどー。本文読めないから授業困るんでまじ止めて。というか、消しゴム隠したっつっても、あっちが落としたのを拾って返せずずるずる持ってたらあっちにばれて、勝手に泥棒扱いされたんですけど。大丈夫大丈夫、そんなに怒って泥棒泥棒叫ばなくても。あんたが消しゴムに我がクラスの王子様・坂下君との恋のおまじない〜この恋が叶いますように☆〜を施していようがいまいが、私には関係が無いのよ。見られたら効果ないのよね。ごめんばっちり見た上に思わず写メまで撮っちゃった。まあ私は泥棒扱いされ、クラスからは無視され、「うっかり」ジュースを頭から引っかけられるなんて日常茶飯事で、ここまでくればいっそ笑えてくるから不思議よね。つまり、現実の私は舞というふざけた女に苛められちょっと精神がやばい状態なのよ。そして、あの日、この黒猫を拾ったの。

 『ソレは、貴女に都合のよい夢を見せておいて、現実の貴女を最後は喰ってしまいます。今なら、恐らく戻ってこれますよ』
 「結構です。戻るつもりもないので」
 私の左にいる黒猫は、私に幸せな夢を見せてくれた。現実の私の思い出が邪魔をして、「落書き」が登場してしまったけど。多分、現実の私さえいなくなれば、完全に完璧に私に優しい世界が出来上がる。私は、それが心底楽しみでならない。私が思い描いた通りの世界。
 『×××さん。いつか夢は覚めてしまうんですよ。そもそも、永遠に続く幸せはないんです』
 「覚めるも何も、これが現実になるんです、よ」
 闇が、どんどん深くなっていく。その中で、黒猫の眼だけが爛々と光っている。
 『・・・分かりました。これ以上は何も言いません。×××さん、』
 『夢は、気付かなければ幸せかもしれませんしね』
 ぷつっ、っといきなり切れた通話。ツー、ツーと無慈悲な音を吐き出すスピーカーから耳を離し、部屋に走っていく光を見つめる。明らかに質量を伴った闇が、私を覆い隠してく。まるで飲み込むように。困った。私は最早これが夢だと言う事に気付いている。つまりこれから体験するであろう幸せな出来事も全て空想、私の願いが単に実現しただけなのだ。幸せ。それで、幸せかい?ああ、それは幸せ?思考をすることすら酷く煩わしい。ぬるい闇が私を取り囲むのをただ見つめる。
 気付くと、私の胸元に、白く光る黒猫の二つの瞳があった。

 私の視界が闇で覆われるその一瞬、私は黒猫は名前が何だったろうと、頭を傾げた。

 ツー、ツー、ツー、ぷつ。『    』ぷつ。ツー、ツー、ツー。