仕方ねぇじゃねえか。『何も』知らなかったんだからよー。




 「ホワイトディに、どうぞ」
 鈴を転がす様な声に顔を上げてみると、可愛らしいラッピングが施された小さい箱が目に入った。昼休みともあってざわめく教室。僕は次の時間提出の課題をさっぱりとやって無かったので、忌々しく人生の汚点とも言えるが、蓮見に代償としてプッ●ンプリン一つを提供することで、ノートを見せて貰っている。そしてあとはまるで模写機の様に無心でうつしていたのだが。はて、このピンクの箱と、そしてそれを満面の笑みで差し出している人は何なのだろう?
 「うっわ楪さん。七竈になんかにお菓子やるくらいなら、この蓮見!蓮見にもどうか一つ!」
 隣でプリン片手に何やら喚いている男に彼女は、二つ結びの髪を微かに揺らし物凄く嫌そうな顔をして、雑に持っていたバッグから一つ、これまた可愛らしく飾られた箱をぐいっと押しつけた。無論、受け取った後蓮見がその箱を高くつきあげ、「よっしゃー!!!」と叫んだのは言うまでも無い。五月蠅い。
 「蓮見、うざい」
 「やったやっぐほげほっ!?ちょちょちょ七竈君グーで鳩尾は無いと思う!なぁ!視界がかすむんだけど!?」
 余計に五月蠅くなったので、今度は一発目には少し抑えていた力をフルで、残す所なく、思う存分に込めて、鳩尾にヒット。うーん、近頃上手くなってる気がする。
 「な、七竈君・・・・・・蓮見君声なき声を上げて蹲ってますけど」
 「ああ、この馬鹿は放っておいて下さい」
 「・・・・・・まぁ、じゃあ。えっと、七竈君にも、ホワイトディのクッキーです」
 「ホワイトディ?」
 それで何故僕にクッキーを?と首を捻ると、彼女は「ほら、バレンタインはテストで何も作れなかったから。クラス全員分に作って来たの」・・・・・なんとも分かりやすい説明ありがとう。クラス全員分まで作るなんて、中々責任感のあるというかやる気に満ち溢れていると言うか。  「あのー」
 「あ、ごめん。えっと、クッキーくれるの?ありがとう」
   「いえいえ。はい」
 再び差し出されたその箱に、一瞬躊躇いながらも手を伸ばし受け取った。僕がもう一度礼を言うと、二つ結びのその人は、にこやかに笑って、去って行った。


 「・・・・・・蓮見、今の子、教室から出てった!?」
 「うぇ!?あー?クラスには居ねぇけど」
 蓮見のその言葉を聞くが早いか、僕は受けとったその箱から急いで手を離した。箱が良い感じに傾いて落下し、そして着地したが知った事では無い。それよりも。それよりもだ!冷や汗がだらだら流れて物凄く気持ち悪い。箱を触っていた手を学ランの端で拭きながら、僕は椅子を引いてその箱から距離を取った。
 「うぁー!何これ何あの人怖い怖い怖い!」
 「はぁ!?お前何言ってんだよ。折角クッキー貰ったってのに」
 そんな暢気なもんじゃねぇよ!何で蓮見もそんな箱を大切そうに扱えるんだよ!ってあー、そうかこいつは見えないのか。くっそうそっちの方がよっぽど幸せじゃねぇか!折角くれたのに。
 「・・・・・・今の子、誰?」
 「あ?同じクラスじゃねぇかよ。ゆずりはさん。漢字だけ見たら絶対俺読めないって漢字の」
 「どんなんだよ・・・・・・」
 「あー?確か木へんで、右が世の下に木がついてた」
 「『楪』か。うっわー、絶対これから近寄らないようにしよう」
 僕がそう宣言すると、蓮見がまるで僕を人でなしの様に見てくる。失礼な。お前だって理由を聞けば、近寄る気も失せるって。ああ、知らないって楽だよな。しかし何故気付かなかったんだろう。話した事も無いし近くに居た事も無いからっていうのもあるけれど、同じ教室に居たら分かりそうなものなのに。
 「なぁなぁ、七竈。お前そうやって一人で納得して一人で話終わらせるの、悪い癖だと思うぞ」
 「うるさい」
 「俺に説明は無しですかー」
 僕はその問いに、ノートをうつす作業を再開する事で黙殺する。それを分かっている蓮見も、プリンを一口、口に運びながら、「そんじゃ、そのお前が貰った分俺が貰う!」と言ってさっさと自分の元へ箱を引き寄せてしまった。このやろ、僕がまだ是ともしてないのに。だが特に反論も無いので、僕はそれをちらりと見ただけに留めた。
 「なーなーかーまーど」
 「・・・・・・何だよ」
 「知ってるのも大変だと思うけどな、」
 「あ?」
 
 「知らないってのも、また怖いんだぜ」

 それは、先程の僕のぼやきに対する何かの様で。あまりにもピンポイントなその言葉に僕はしばしぽかんとしてしまう。だが奴はそんな僕の呆然など知ったこっちゃないと言うかのように、スプーンを口にくわえ右にプリン、左手にクッキーの入った箱二つを抱え、「ノートうつしたら早く返せよ」的な事を言い残しさっさと自分の席に帰ってしまった。何あいつ。言い逃げとか、意味深な言葉とか、それ僕の専売特許なのに。って違うか。でも蓮見はストレートさが売りじゃねぇかよ。あれか?ギャップ狙ってんのか?くっそうどうせ案の定僕はひっかかったっつうの。
 ぼんやりとした頭のまま、ノートに目を落とす。小さい直衣を着た人やら、なんやらがノート上で好き勝手に暴れている。妖怪どもめ。僕はそれを暫し見つめていると、奴らがノート上で二つのグループに分かれて合戦をし始めたので、一つ息を吐いて手で消しゴムのカスを捨てる要領で奴らをノートから掃き落とした。

 

 それから数日後。僕と蓮見はコンビニで買い食いをしていた。寒の戻りで寒い風が吹く道路、必死に凍えながら歩いているとふと横にコンビニ。そこには絶品肉まんだの唐揚げ20円引きとかのぼりが立っている訳です。これを振り切れる人は少なくとも僕ら二人には居なかった。特に何を確認する事も無く僕らは無言でコンビニへと入り、お財布と相談しつつホットスナックコーナーを睨みつける。それぞれが自分のゲットした商品で暖をとりつつ、外でかぶりつく。結局外で食べるのだが、それは仕方ない。僕が肉まん、蓮見がコチュジャンまんという明らかにやっちゃった感漂うものに齧り付いていると、ふと、右前方から声を掛けられた。と、同時に襲うのは冬の寒さとは異質の寒気。
 「・・・・・・あれ、七竈君、と、蓮見君?」
 うっあー。会っちゃった。黒いトレンチコートと赤いマフラーに身を包み、真っ白に色が無い顔を少し綻ばせながらこっちを見ていたのは、かの楪さんだった。肉まんをうっかり落としそうなほどに心拍数が乱舞している僕とは対照的に、蓮見はぶんぶんと尻尾を振っているのが見えそうな位テンションを跳ね上げつつ、手を振った。
 「偶然だねー。何か見た事ある人いるなって思ってたら、やっぱり二人だった」
 「楪さん、今帰り?」
 「そう。うち、この近所なの。遊びにくる?」
 楪さんが冗談気に笑って言った言葉を、蓮見はすかさず拾い集め、「俺行きたい!」と必死にアピールし始める。僕はと言うと、ひたすら肉まんを食べるふりをしつつ、楪さんを視界に入れないように眼を伏せていた。肉まんに集中しようとしていたので、二人の会話を取り逃がした。それが、致命的だった。
 「やった!七竈、お前も行くだろ?」
 何やら盛り上がっているなと思いつつ大部分をスルーしていると、突然名前を呼ばれ顔を上げる。目に入ったのは、満面の笑顔の蓮見と、その後ろで人形の様に微笑んだ顔を保っている楪さん。その微笑みに冷や汗が流れつつ、「何処に?」と尋ねた。
 「何だよお前聞いてなかったのかよー。今から楪さんち突撃訪問するけど、お前も来るよな?」
 「は?え、あ、僕はちょっと・・・・・・」
 「分かった分かった。んじゃあ俺は行くから、ここでな!」
 「おい!楪さんに迷惑だろ!」
 僕が慌てて声を上げると、楪さんが「どうせ暇だし良いよ」と言葉を添える。いやいやいや、蓮見も蓮見だ。そんな誘われたからっていくなよ。ああ、くそ。こんなことならちゃんとバレンタインのあの時に説明しておけばよかった、か。自分の選択ミスを悔やみつつ、何かいい言葉は無いかと頭を巡らせる。だがそうしている間にも、蓮見と楪さんは盛り上がっていて、最早僕の言葉は簡単には届きそうにはなかった。そして結局。
 「んじゃな!」
 「ばいばい」
 二人は笑顔で僕に手を振って歩きはじめてしまい、僕はあ、だの、う、だの何とも言えない声を上げながら、ぽつねんとその場に佇む事になったのだ。


 夜である。僕はケータイを握りしめ、液晶を睨みつけていた。そしてしつこく数十秒おきに新着メール問い合わせをする。かち。かち。求めているのは、誰でもない、蓮見からのメールである。既にこちらがメールを送って2時間。普通ならその位返信が無くても特に何も思わないが、今日ばかりは特別である。何せ、あの、楪さんの家に行っているのだ。あいつ、大丈夫なんだろうか。
 「あー、もう」
 僕はケータイをベッドに放りだす。液晶の光がが暫くしたのちにふっと消えた。それを見つめつつ、僕は一つ溜息を吐いた。ああ、くそ。蓮見の馬鹿。
 僕は頭をがしがしと掻きながら、右手に鋏、左手に白い紙を持つ。そしてざがざがと紙に刃を入れていき、一つの形を創り上げた。近くに居た青柳が興味深げに僕をじっと見ている。黒く二つに分かれた尻尾がゆらりゆらりと揺れ、眼がきらりと光った気がした。偶々その横に居た一つ目の小僧がけらけらと笑いながら走り回る。その光景に僕は苦笑しつつ、椅子をくるりと回して、がらりと、机の右にある部屋の窓を開けた。冬の冷気が急に部屋に入り込んでくる。
 『何じゃ、七竈』
 『お主、今日は気も漫ろだの』
 『漫ろだの。虚ろだの』
 後ろの妖怪どもはいつもの事ながらスルーしつつ、僕は息を凍らせながら夜空を見上げる。星がきれいだ。冬は良い。空気が純粋で、かーんと音が鳴るかの如く澄んでいる。僕は暫し冬の夜空を黙って見つめ、おもむろに右手に持っていたものを翳す。
 手の上にちょこんと乗っていたのは、先程鋏で切りぬいた、白い鳥である。左右対称に創ってあるので、真ん中を少し折る事によってより立体的になる。僕はそれを両手で開いたり閉じたりする。いつの間にか青柳が出窓部分に乗り、じっと僕を見つめている。さっさとしろと急かされている様だ。
 ふぅっ。
 僕は手に持っていた白い鳥に息を吹きかける。するとその白い鳥は手から落ち、二転三転した後、自らの羽を震わせた。そして、ぱたぱたと夜空を切り裂きながら遠くに消えていく。これでいい。僕は窓を閉め、酒を出せと騒ぐ天狗の様な何かにチョップを喰らわせた。
 ベッドの上にたむろっている妖怪を気にすることなく寝転がり目を閉じる。瞼の裏で描かれるのは、静、とした夜空だった。



 「七竈君、今日も蓮見君来てないの?」
 時はホワイトディと同じく昼休み。イヤホンを耳に突っ込み、一人もくもくと勉強をしていた僕に、心配げな声がかかる。誰と問うまでもない。楪さんである。
 『今日も』というのは、蓮見が今日で三日、学校に来てない事に由来する。あの、楪さんの家を訪問した次の日からだ。
 「やっぱり、あの時少し風邪気味ぽかったもんね。こじらせたのかな」
 自分が誘ったせいで悪くさせたのかもしれないと、眉を下げながら言う楪さん。僕はイヤホンを外し、曲を停止させ、「大変だよね」と言った。
 「だね。今日の放課後にでも、お見舞い行ってみようかな」
 「いや、あの馬鹿の事じゃなくてさ」
 え?と首を傾げる楪さん。僕は、y=sinXのグラフをノートに書きつつ、薄く笑った。
 「楪さん。大変だろうな、と思って」
 ぴしり、と音が聞こえそうな位、見事に訝しげな顔を固まらせたまま、楪さんは目だけを光らせ僕を見ていた。あー、怖い怖い。
 「どういう意味、かな」
 「・・・・・・そのまんまの意味」
 顔を上げるのも嫌で、僕は問題を黙々と解いていく。だから楪さんがどんな顔をしているのかは分からないが、少なくとも+の感情の顔はしていないだろう。
 「・・・・・・楪さん」
 「なぁに」
 僕はsinXとx軸の面積を叩きだした後、漸くノートから目を離し、楪さんをまともに見る。途端に何とも言えない寒気に襲われて、気持ちがくじけそうになる。しかしここで折れる訳にはいかない。蓮見の事は、癪だが、非常に不本意ではあるが、助け出してやらねばなるまい。寧ろ蓮見一人くらい居なくなった方が世界の為だと思うがそうもいかない。何故ここまで僕は蓮見の事を気にかけてやっているのだろうか。いや、そもそも、蓮見は、
 急に、きーん、という耳鳴りに襲われて、少し顔をしかめる。くらくらと廻り出した世界。だが、それは唐突に明瞭になった。口が勝手に動く。
 「今日さ、僕も楪さんの家に行ってみたいんだけど」
 全てが収束していく様な感覚。楪さんは、今までの笑顔は全て偽物だと分かるくらいはっきりとした、喜、を浮かべながら、「いいよ」と応える。
 「いいよ。いいよ。遊びに来てよ」
 楪さんの二つ結びが揺れる。今この世界に、僕と彼女しか存在しない。
 彼女の顔に浮かんだのは、喜では無く、鬼、かもしれない。


 お洒落な一戸建て。酷く楽しそうな笑みを浮かべた楪さんに連れられて辿り着いたのは、そんな普通の家だった。玄関で少し僕が躊躇っていると、「どうせお兄ちゃんしか居ないし、大丈夫だよ」と朗らかに彼女は笑う。成程、楪さんにはお兄さんが居るのか。いや、居たのか?玄関の扉が閉まる音が、やけに響いた気がした。
 リビングに通される。紅茶を出されるが、僕は手を出せない。飲みたくないと言う訳で無く、今緊張と恐怖で手が震えていて、迂闊に動かせないだけだ。絶対ここでカップを掴もうとしたら失敗して、紅茶の洪水になるだろう。ああ、やだやだ。僕は余り怖いのは好きじゃない。お化けとか幽霊的な怖さはいい。だって、それが普通だから。僕が嫌なのは。僕が一番怖いのは。
 「お兄ちゃん、寝てるみたい。大学生って暇なのかなー」
 にこにこと笑いながら話す楪さん。
 僕が一番怖いのは、生きてる人間だ。そして、人間の強い想い。
 それは、複雑に絡み合い、やがては本人たちすらも喰らいつくす。
 「・・・・・・ねぇねぇ七竈君」
 楪さんの声が、無機質に響く。何故、このリビングは、どこか無機質なんだろう。家族の写真が一杯飾ってあって、ソファには誰かが読んでいたらしい雑誌が放り置かれているのに、人間の空気がしない。落ち着かない。
 「七竈君、私の事、嫌いでしょ」
 楪さんの眼が光る。その口調は、疑問でも何でもなく、ただの確認だ。気圧が、温度が、全てが一気に下がっていく。僕は手の震えを抑え、紅茶を飲むことでその言葉を黙殺した。だが、楪さんはその沈黙すら予想していたことのように、にっこりと微笑んで紅茶を飲んだ。それは、上位の者が、下位の者の為に、わざとペースを落としている様で、物凄く、気持ちが悪くなる。大体この家に着いた時から、慢性的な吐き気に襲われて、冷や汗が止まらない。さっさと、帰りたい。けれど。でも。
 「ごめ、楪さん。トイレ借りていい?」
 蓮見、すまん。ここはちょっと一時退却させてくれ。「廊下でて右の突き当たりだよー」という言葉を後ろに受けつつ、僕はリビングを出た。薄暗い廊下。奇妙なまでに静かな家に僕は一つ息をする。楪さんの言葉通り、トイレは廊下の突き当たりにひっそりと佇んでいた。出来るだけ静かに扉を開け、そして中に入り鍵を閉める。別に本当にトイレをしたかった訳ではないので、便器に座ることなく、扉に寄りかかった。
 「あー・・・・・・」
 酷く厄介なものに巻き込まれている気がする。そして今、全ては楪さんの思い通りなんだろう。ホワイトディのあの日から、楪さんの上で僕はゆらゆらと踊っていただけの気がする。だが、僕は同時に大きな違和感を感じていた。何だろう。何かが違う。何かが根本的に食い違っている。でも何が?理性の領域ではない、感覚の世界だが、何かがはっきりと違っていた。僕は目を瞑って考えるが、思い付かない。考えている時点で駄目なんだろう、きっと。
 「・・・・・・うし」
 しばしずりずりと蹲り、顔を軽く叩いて、気合を入れる。取りあえず今後の目標→蓮見を見つけここから逃げる。それだけ。余計なことは考えない。すっきりとした目標を胸に、僕はそろそろと扉を開けた。取りあえずはこっそりと蓮見が居る所に行かなければ。場所は分かっている。その為に白い鳥を飛ばしたのだから。
 だが、僕の計画は早々に頓挫した。トイレの先、1メートルほどの所に人が居たからだ。楪さんかと思わず身体を固くしたが、どうやらそれは楪さんのお母さんらしい。出来れば話したくないが、その前にあちらから声をかけられてしまった。
 「・・・・・・あら?」
 「こ、こんにちは」
 栗色の髪を一つ結びにまとめ、黒いワンピースを纏ったその人はとても疲れている様に見えた。そしてその姿を見て、僕は酷く、切ない様な、憐れな気持ちを抱く。けれども。
 「お客様?どちらさまかしら」
 「・・・・・・楪さんの、クラスメイトです。お邪魔してます」
 そう、あの子の。ぼんやりとそう呟いたその女性は、夢見る様な幸せな顔を浮かべ、あの子の。あの子の。
 『あの子が、クラスメイトを、連れてきた』
 うふふ、と笑うその人は、惨めだと言えなくも無かった。僕がその様子を見守っていると、リビングの扉が開く音がする。
 「あれ、お母さん、帰ってきてたの。七竈君に余計なこと言ってないよね」
 むぅ、と頬をふくらませながら問う楪さんに、彼女のお母さんは、ええ、ええ、と繰り返していた。僕は何だか、もうこれは正攻法で行った方が良い様な気がして、蓮見を探すことは諦めた。楪さんに話をするべく、歩き出す。そして、お母さんの隣りで少し立ち止まる。言うべきか。言わざるべきか。こんなにも幸せに笑う人に、言って良いものだろうか。しかし、僕は、中途半端な優しさしかもっていなかった。だから、結局、言葉を紡いでしまった。
 「楪さんのお母さん」
 「ええ、何かしら」
 にっこりと笑って僕を見るその女性は、本当に幸せそうだった。ごめんなさい。ごめん、なさい。
 
 「貴女は、禁忌を犯してしまったんですね。越えてはならない、その一線を」

 ぱっと、何かが弾け飛んだ気がした。幸せそうな微笑みが、大きく歪む。数瞬の沈黙。彼女の口からは言語化できない音声が流れ出た。お母さんは蹲り、只叫び呻いていた。既に風船は大きく膨らんでいた。僕はそれに、そっと針を突き立てたのだろう。色々な所にガタが来ていた。
 楪さんは、まるで鬼を見る様な形相で僕を睨んでくる。お母さんが繰り返す『ごめんなさい』をBGMに僕は、「蓮見を、返せ」と楪さんに要求した。
 「蓮見を返せ。もう、いいだろう」
 僕がそう静かに言うと、楪さんはふるふると首を振った。
 「蓮見君なんてここには居ない。ここには居ない。ここに住んでるのは、私と、お母さんとお父さんと、お兄ちゃんだけ。蓮見君なんてここには居ない」
 そして下を俯いた楪さん。どうしたものかと思い、僕が頭を悩ませていると、低い、低い楪さんの呟きに、体が硬直する。

 「せっかく。折角、あと少しで全員揃うのに」

 あれ?
 あれ。
 違う違う違う。あれ?え?だって。楪さん。それは君が言う言葉では無い。君が言うべき言葉では無い。それを本来言うべきは、後ろで蹲ってるお母さんとか、あとお父さんとかお兄さんだ。君は、逆に、それを言われる立場なんだよ。
 「ゆ、ずりは、さん」
 「折角折角折角全員集めてるんだよ家族全員きっと誰一人欠けることなく揃えればきっと漸くようやくようやく、」
 壊れたCDプレイヤーの様に言葉を紡いでいた楪さんは、そこでばっと顔を上げ、酷く愉快そうに、にっこりと、口角を上げた。
  「元の生活に戻れる」
 違和感の、正体。僕は、慌てて後ろに座り込んだお母さんを見る。お母さんはぼんやりとした瞳で、僕を見返した。その瞳で、全てが解ける。人形操り師が、人形に操られてどうする。だから。だからこんな事してはいけなかったのに。加速度が、つきすぎた。速度が、上がり過ぎた。最早、その人の制御できるものでは無くなっていたのだろう。
 全ては、恐らく、愛情からだったに過ぎない。後は全ての偶然と必然が混ざり合い、融合し、彼女を生んだ。
 「楪さん」
 「なぁに。蓮見君なら、居ないよ」
 「違うよ」
 「何が」
 楪さんが笑う。全て自分の勝利が決まり、余裕の笑み。楪さん。ごめんね。君が戦ってきたゲーム、そもそも設定が違ったみたいだ。
 「蓮見がここにいるのはもう分かってるから。・・・・・・何故君は、蓮見を?」
 僕がそう言うと、楪さんは、ふう、と溜息をついてから、「分かってるなら仕方が無いよね」と苦笑した。
 「だってだって、躯が必要なんだもん」
 「躯?」
 「お父さんお母さん、お兄ちゃん三人分の躯。お兄ちゃんの躯が揃って、あとはお父さんだけ」
 「その躯、最初は僕を狙ってたね」
 そう問うと、楪さんは黙ったまま、笑みを深くした。その沈黙は明らかに是と伝えていて、僕は嘆息したくなった。
 「何故、こんな事を?」
 すると楪さんは、急に目に涙をためて、子供の様に声を上げた。
 「だってだってだって!皆私のせいで死んじゃった!私が拗ねて一緒に出掛けないって言ったから行き先を海に変えて三人だけで出かけて、そしてそのまま皆海の中に沈んで帰ってこなかった!私が素直に行ってれば、予定通り水族館になってた。私がずっと行きたいって言ってたから。だから水族館に行こうって。だけど私が行かないって言ったから、じゃあまた今度水族館に行って、今日は海にでも見に行こうかって。そして、そして皆死んじゃった!その上、皆の身体もあがってこなくて。しょうがないから人形を入れて弔った。そしたらね、妖精さんが教えてくれたの」
 「何を」
 「居なくなった家族の人数分躯を用意したら、元通りにしてあげるって」
 お母さんの絶叫が、大きくなった。憐れな人だ。
 「私、ちゃんと用意した。そしたら、ほら、妖精さんがちゃんと元通りにしてくれたよ!」
 楪さんが、声を張り上げる。奇妙な笑い声を上げながら。
 ごめんね。僕は、やっぱり、優しくないみたいだ。
 「・・・・・・楪さん。逆なんだよ」
 軋んだ様な笑いが止む。楪さんは笑みのまま表情を凍らせ、「・・・・・・え?」と声を漏らした。僕は頭を掻きながら、どう説明したものかと悩む。
 「楪さん、違うんだ。その日、死んだのは、お父さんお母さんにお兄さんじゃないんだよ」
 「え」

 「その日、死んだのは君で、そして、空葬されたのは、君の方なんだよ」

 どうしてこんなややこしい勘違いが起きてしまったのかは僕も知らない。でも確かなのは、その日楪さんが死んでしまったと言う事。そしてそれを嘆き悲しんだ、恐らくはお母さんが、楪さんの為の別の躯を用意して、そしてそこにどんな奇跡が加わったか、楪さんが、戻ってきてしまった。死人返しなど。してはいけないのに。だが、娘を失う事に耐えきれなかったのだろうか。その人はしてしまった。
 お母さんの方も、限界は感じていた筈だ。何かが、違う。何か自分は恐ろしい事をしてしまった。そもそも死者を呼び戻す事に想像もつかないほどの力を使っただろう。お母さん自身、嬉しいと思うのと同時に、誰かが終わらせてくれる事も願っていたのではないか。
 事実は歪み捩じられ奇妙な物語を創り上げた。この家は、二つのお話の舞台だったのだ。表は、娘が死んでしまった家族の。裏は、家族が死んでしまった、娘の。互いに互いへ干渉しながら、そして都合よいものだけを吸収して今まで過ごしてきたのだろう。表裏一体。表も裏も、見方次第だ。
 だが、呼び戻された当の本人は。自分だけが生き残ったと勘違いした本人は、そんな事、納得も出来る筈が無い。
 「ど、ういう、事。ちが、私だけが生き残って」
 「楪さん。落ち着いてよく見て。本当に、その記憶は正しい?」
 学校でホワイトディのクッキーを渡された時。楪さんはすでに死んでいる事は見ただけで分かって。それよりも問題なのは、中身と身体がばらばらな事だった。それは死人を誰かの躯に戻した事の印で、禁忌を犯したことを意味する。だからあんまり近寄りたく無かったのに。蓮見の馬鹿がのこのこと近付いていくから。結局関わらざるを得なかったじゃないか。
 一つ溜息をかみ殺していると、ぶつぶつと何やら呟いていた楪さんが、唐突に「嘘だ」と声を上げた。
 「嘘だ嘘だ嘘だ。七竈君は嘘を言っている。嘘だ。嘘はいけないよ、七竈君」
 「嘘って・・・・・・。ちょ、楪さん」
 顔を上げた楪さんは満面の笑顔で。僕のどこかが警鐘を鳴らす。だが僕がそれに対処する暇も無く、楪さんが僕を押し倒す。
 躊躇いも無く首に掛けられたのは手で、その後の行動がありありと予測出来て、冷や汗が流れる。案の定数秒後寸分の狂いも無く予想通りの行動が行われ、僕は酸素不足で頭が真っ白になる。だから、生きてる人と、強い人の想いは恐いんだ。死者を呼び戻したり、想いが自我を持ちはじめたりする。それよりもだ。これ以上首を絞められていたら僕は死んでしまうのではなかろうか。苦しい。廊下のフローリングは冷たく、しかし楪さんの手はもっと冷たい。お母さんの泣き叫ぶ声が聞こえる。楪さんの笑う声がする。
 意識がホワイトアウトする寸前、無意識に叫んだ言葉は、何故か妙にしっくりと僕に馴染んだ。


暗転。

 *

 「馬鹿七竈。・・・・・・でもまぁ、今回は名を詠んだことで赦してやるか。ぎりぎり、だったがな。しかし困ったなぁ。名を詠まれれば助けなくてはならず、その上こちらからは傷つけてはならんとは。それでは喰らう事が出来んではないか。寿命の終わりに喰らう契約とはいえ、あと何十年こいつのお守をせねばならんとは気が重い。いっそ今この場で喰ってしまおうか」

 「・・・・・・本当に、生殺しだ。七竈、お主は中々妖怪を転がすのが上手いではないか。血筋か?あの女も中々強かだった。ああ、空腹で苛々する。身までとは言わんから、血くらい寄越せ。その程度なら契約不履行にはあたらんだろう」
 
 七竈の首筋に顔を埋め、暫しした後、それはぺろりと唇についた血を舐め取った。




 「おーい。七竈さんー」
 誰かにゆすぶられている。ぼんやりとした視界を無理やりこじ開けると、そこにはいつも通りむかつく蓮見の顔があった。何故か酷く楽しそうである。その様子に更に苛立って、僕は腹筋を使い、頭を蓮見の顔にぶつけた。予想以上のクリティカルヒットである。悶絶している蓮見は放っておいて、僕はきょろきょろと周りを見渡す。そこは先程までの狂気と悲劇が飛び交う一軒家でなく、整然とした、公園である。既に空は満天の星空で、空気が冷たい。
 「・・・・・・どういう状況?」
 「俺も聞きてぇよー。楪さんち行って、何故かベッドで寝てて、慌てて起きてリビング行ったらその前でお前倒れてんだもん。な、癖に楪さん居ねぇし。取りあえずここまで運んできた。俺偉くね?なぁなぁ俺」
 「うざい」
 ベンチに座った状態から立っている蓮見の膝に一発くらわす。それよりも。あの後どうなったんだ?僕は楪さんに首絞められて。でも蓮見が駆け付けた時には既に居なかったって。思わず楪さんに絞められた所を撫でる。・・・・・・ん?何かひっかき傷みたいなのあるけど。まぁ何かの時についたんだろ。しかし怖かった怖かった。もうこりごりだ。
 「なぁなぁ、何が有った訳?お前どうして絞められた跡付いてる訳?そういうプレイが好きなの?」
 「黙れ」
 心底蓮見はうざい。助けなきゃ良かったかもしれない。いやまぁ良いけど。取りあえずは、何かが終わった様だ。この後の事は、楪さんと、その家族が何とかするだろう。死んだ人を甦らせるなんて、そうそう長くはもたないから。
 
 だって、あの時も。

 脳裏で微かに星が瞬いた気がした。あれ。今僕は何を考えていたっけ?・・・・・・ああそうか。楪さんの事だったかな。何故だか思考が酷く曖昧だ。疲れてんのかな。明日が休日でよかった。正直明日起きていられる自信が無い。そもそも今だって眠くて仕方が無い。頭がぼんやりするし。蓮見の声が途切れ途切れに聞こえる。
 「おーい。七竈、ここで寝るんじゃねぇぞー」
 「うっせぇ・・・・・・」
 これは本当にここで寝てしまうかもしれない。まぁいいか。人間眠い時は全ての思考が適当になるんだな。いざとなったら蓮見に何とかしてもらおう。助けたお礼としてその位はしてくれてもいいと思う。あんな死にそうな目にあって、そのお礼が僕を家に運ぶ事なんて簡単極まりないじゃないか。やっぱり何か奢らせても良いかもしれない。眠い。ねむ、い。ねむ、


 「うっわぁ、こいつ本当に寝やがった・・・・・・」



 後日譚である。次の日僕はたっぷりと睡眠をとり、十一時頃にもそもそと起き出した。空腹で目が覚めるとは中々愉快な目覚めである。階段を下り一階のリビングに行くと、起きぬけ早々疲れる光景を見た。光さすリビング、そこに我がもの顔で座りテレビを見ていたのは、あの阿呆である。どうやら父親は休日出勤に勤しんでいるらしいが、しかし何故こいつが居る。もう一度起きる所からやり直してもいいだろうか。・・・・・・無理か。
 「おそようさん。そんでもって腹減った」
 「・・・・・・おっま、出てけ出てけ今すぐ出ていけそうじゃなかったら実力行使すんぞ!」
 蓮見の言葉に僕の何かがすぱーんと跳ねあがる。我ながら、朝から元気だなぁ。だが蓮見も慣れた様子で僕の蹴りを避けながら、「いやいやいやお前運んできたの俺だしそのくらいいいじゃねぇかよ」と喚く。ああああ、五月蠅いこいつ助けなきゃよかった。
 「大体、助けたのは僕の方だっつうの!その位して当然だ!」
 「はぁ!?いや俺聞いてねぇって!」
 その言葉に唐突に疲れが戻ってきて、僕はこんな目に遭うくらいなら、次からはきちんとやばいのは教えようと心に誓った。もういやだ。絶対次は助けねぇこんな奴。
 この後、結局僕は奴に昼食を作って与える事になった。真に遺憾である。その上、ずるずると居座りやがったこいつは三時のおやつまで要求する。それにもきちんと応えがしょがしょとずんだ餅を作った僕は褒められてもいいのではないか。まぁ、ずんだ餅にタバスコを仕掛け、蓮見が悶絶する姿をムービーに収められたので良しとしよう。パステルグリーンと、タバスコの赤は中々に眼に痛い取り合わせであった。
 そして、月曜日。固い顔で楪さんはやってきて、僕達に深々とお辞儀をしたのち、一言、「ごめんなさい」と言った。
 「ごめんなさい。そしてありがとう」
 それ以上は語らず、ただお辞儀をし続ける彼女に、蓮見はきょとんとし僕は少し苦笑した。
 「あの時は、どうなったの?」
 「七竈君の首を絞めて、気付いたら廊下に座り込んでた。七竈君も、蓮見君も、私が気付いた時には居なかったよ。その後、お母さんとも話して、戻り方も分からないから、時が来るまではこのまま過ごす事にした。この躯の元の持ち主には申し訳ないけれど、もう少し、使わせてもらって、ちゃんと私が元に戻れたら、返す。その時にお母さんも然るべき罪が下されると思う」
 尤も、もうお母さんは現世の事なんて分かって無くて、病院に入院する事になったけど。そう続けた楪さんに僕は言葉を返せない。甦るのは、黒いワンピースを纏ったあの人。僕の一言で、壊れてしまった人。
 だから、生きている人とその強い想いと関わるのは怖いんだ。少しの差異で、取り返しのつかない何かが壊れてしまうじゃないか。
 「七竈君は、良い事をしてくれたんだよ。だから、気にしないで」
 「・・・・・・そういえば、本物のお父さんとお兄さんは?」
 「お母さんがね、私を還した時に、ついていけないって、離婚してた。お兄ちゃんもお父さんの方についていったって」
 楪さんの二つ結びがゆらりゆらりと揺れる。
 「あと、あのね」
 「ん?」
 「良ければ、これからも仲良くしてほしいなぁって。その、あんな事したのに言うのも図々しいけど、でも」
 「いいよ。こちらからもよろしく」
 僕がそう言い、よく分かって無い蓮見が『よろしく』という単語だけに反応して、「よろしく!」と続ける。
 その時の楪さんの笑顔は、とても綺麗だった。